カザルス, パブロ 1876-1973 Casals, Pau (Pablo)
解説:齊藤 紀子 (967文字)
更新日:2008年12月1日
解説:齊藤 紀子 (967文字)
1.学習・師事歴
音楽家夫妻のもとに生まれたカタルーニャ出身の作曲家。幼少の頃よりピアノ、オルガン、ヴァイオリンを学んだ。1887年にバルセロナ市立音楽学校に入学し、チェロをガルシーアに、ピアノと作曲をロドレーダに師事。1893年には摂生女王の奨学金を得て、マドリード音楽院で作曲をブレトンに、室内楽をモナステリオに師事している。その後、ブリュッセル音楽院も訪れた。初期の作品(ミサ曲や交響詩、弦楽四重奏)は、ブリュッセルを訪れた際、音楽院の院長へファールトに認められたが、チェロの教授と折り合いがうまく行かず、奨学金を断念してパリのミュージック・ホールの第2チェロ奏者となった。
2.指導歴
1996年にバルセロナに戻った際、教職に就いている。また、1919年には、パリのエコール・ノルマル・ド・ミュジックの創立に携わった。
3.作曲以外の活動
チェリストとして、早い時期から独自の運弓法・運指法を模索していた。1891年にバルセロナでデビューを果たしている。この頃は、カフェで演奏をして生計を立てていたが、J. S. バッハの《無伴奏チェロ組曲》を知ったことを機に、音楽の研究に真摯に取り組むようになった。アルベニスを通じて紹介された摂生女王の私設秘書モルフィ伯爵は、熱心な音楽愛好家でカザルスの後援者となった。チェリストとしては、その他に、パリのミュージック・ホールやバルセロナのリセオ劇場で演奏している。また、ピアノトリオや弦楽四重奏団、自身の名を冠したパウ・カザルス管弦楽団も結成した。
4.音楽家としての隠棲
カザルスの音楽活動は、政治の影響を著しく受けたものであった。フランコ体制化の圧力から逃れ、1936年に、カタルーニャ語の話されるフランス領地、プラドへ移った。第2次世界大戦中、英米からの受け入れの申し出を断り、同地で演奏、物的支援に努めた。後に、公の場での演奏を一切行わないことを決意している。しかし、1950年のプラドにおけるバッハの没後200年祭でマスタークラスや録音を行い、これを皮切りとし、平和運動の一環として国連総会議場等で演奏するようになった。
5.受賞歴
レジオン・ドヌール勲章、エディンバラ大学博士号、ロイヤル・フィルハーモニー教会金メダル、国連平和賞を受けている。また、フォーレからは《セレナード》を献呈された。