パルツハラーゼ 1924-2008 Partskhaladze, Merab Alekseyevich
解説:舟山 太郎 (1835文字)
更新日:2024年7月22日
解説:舟山 太郎 (1835文字)
ジョージア(旧称グルジア)・ソ連・ロシアの作曲家。1924年12月15日、グルジア・ソビエト社会主義共和国のティフリス(後のトビリシ)に生まれた。父アレクセイは作曲家で、民俗学者でもあった。1929年、父親の仕事の都合でグルジア国内に設置されたアジャール自治ソビエト社会主義共和国のバトゥーミに移住。7歳でバトゥーミ中等音楽学校附属音楽学校のピアノ科へ入学し、ピアノをブチンスキーに師事した。その後バトゥーミ中等音楽学校へ進み、引き続きブチンスキーに学んだ。音楽理論は父親に習い、9歳でピアノのための小品やグルジアの詩を基にした歌を作曲するまでになった。街に響くグルジア民謡、学校でのクラシック音楽(特にグリーグ、ショパン、リスト、ラフマニノフを好んだ)、父親の音楽、これらから受けた影響がパルツハラーゼの作品の特徴的なスタイルを形成していった。
1942年にバトゥーミ中等音楽学校を卒業後、大祖国戦争(第2次世界大戦)に出征し音楽の勉強を中断。戦後オデーサ医科大学とオデーサ音楽院に並行して入学するも音楽への情熱が高まり、1年で中退しグルジアへ戻った。1947年からトビリシ音楽院作曲科で、父の師でもあったバルフダリャンに師事。1949年4月、モスクワ音楽院大ホールでソ連各地の作曲科の学生を集めたコンサートが開かれ、トビリシ音楽院の学生だったパルツハラーゼも参加した。グルジアの撥弦楽器パンドゥリを模した自作のピアノ曲《パンドゥルリ》の演奏は成功を収め、これが大きな転機となった。演奏を聴いたモスクワ音楽院作曲科の学生ツィンツァーゼに勧められ、同音楽院を受験。パルツハラーゼが受験のためにモスクワへ来た頃には既に受験日を過ぎていたが、試験官に自作の演奏を評価され入学を許可された。モスクワ音楽院作曲科でボガティリョフに師事し1953年に卒業。1953–57年に同大学院で学ぶ傍らモスクワ中等合唱学校(現在のポポフ記念合唱芸術アカデミー)で講師を務めた。1954年にソ連作曲家同盟に入会。大学院修了後はモスクワに永住し、子どもと青少年のための音楽委員会、ラジオ芸術評議会、音楽出版社ムジカ、レコード会社メロディアなどの委員を歴任した。1986年ソ連人民芸術家。
創作分野は幅広く、グルジアの詩人ルスタヴェリの叙事詩に基づいた交響詩《ネスタン》(1954)、交響組曲《森の絵》(1978)、《ピアノ協奏曲》(1953)、ピアノ曲《パンドゥルリ第1番》(1948)、同《パンドゥルリ第2番》(1950)、《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》(1958)、《弦楽四重奏曲》(1951)、その他多くの合唱曲、歌曲、映画や演劇のための音楽を書いた。パルツハラーゼの創作の中で子どものための音楽は重要な位置を占め、様々な年代に書かれたピアノ曲を集めた《子どものアルバム》はソ連の子どもたちのレパートリーとして定着した。現在日本で出版されている唯一のピアノ曲〈秋の雨〉はこの曲集の収録曲である(1951年に《ピアノのための4つの小品》作品6の3曲目として作曲され、後に《子どものアルバム》に収録された)。
モスクワ音楽院で同時期に学んだエシュパイは、パルツハラーゼの音楽について「色彩豊かで、非常に情緒的で、メロディアスで、常に高いプロフェッショナリズムを感じる」と述べている。パルツハラーゼはグルジアの民俗音楽を単に引用するのではなく、民俗的要素と西洋的な要素を融合することに努めた。グルジアとは関係のないテーマの作品においてもグルジアの特徴的な旋法・旋律・和声・リズムを聴くことができる。モスクワに永住後も故郷バトゥーミの自然への愛情を持ち続けた。2008年2月14日没。
参考文献:
Богданова 1985 — Богданова А. В. Портреты советских композиторов "Мераб Парцхаладзе". М.: Советский композитор, 1985. [Bogdanova A. V. Portrety sovietskikh kompozitorov "Merab Partskhaladze" [Bogdanova A. V. Portraits of Soviet composers "Merab Partskhaladze"]. Moscow: Sovietsky Kompozitor, 1985.]