close
ホーム > シトハレンコ(シトガレンコ)

シトハレンコ(シトガレンコ) 1902 - 1991 Shtoharenko, Andriy Yakovych(Shtoharenko, Andrey Yakovlevich)

シトハレンコ(シトガレンコ)の肖像写真
  • 解説:舟山 太郎 (3233文字)

  • 更新日:2026年3月12日
  • ウクライナおよびソ連の作曲家、教育者。1902年10月2日(新暦15日)、ロシア帝国領ウクライナのエカテリノスラフ県エカテリノスラフ郡ノヴィ・カイダキ村(現在のドニプロペトロウシク州ドニプロの一部)の労働者階級の家庭に生まれた。冶金工場の旋盤工だった父親は音楽や演劇を好み、一家はバラライカ、ガルモーニ、ハーモニウムなどでアンサンブルを楽しんでいた。シュトハレンコは7歳になる前からアンサンブルに加わり、音楽に囲まれた幼少期を過ごした。1912年にエカテリノスラフ中等音楽学校(現在のグリンカ記念ドニプロ音楽アカデミー)に入学し、ピアノをジナイダ・ラズロフスカヤに師事。しかし父親が冶金工場の職を失い、1916年から一家は各地を転々としたため同校を卒業することが出来なかった。オデーサを経てドンバス地方に落ち着くと、父親が設立したアマチュア劇団の合唱団を率いることで音楽の勉強を中断した損失を補った。その後一家はエカテリノスラフ県へ戻り、家族アンサンブルはヴェルフニョドニプロウシク郡の村々で公演を行った。シュトハレンコはボロダイウカ村でアマチュアオーケストラを組織し、地域の文化活動の一翼を担った。

    1926年に優秀なバヤン1)奏者を集めたアンサンブルを結成し、ウクライナ各地を廻った。レパートリーはシュトハレンコ自身の作品、クラシック音楽、民謡、民俗舞曲など多岐に渡った。このアンサンブルは人気を博し、ウクライナ共産主義青年同盟中央委員会から「コムソモール記念ウクライナ第1バヤン室内アンサンブル」の名称を与えられた。1920年代は演奏活動のほかに中等学校での歌唱の指導、優れた歌手や器楽奏者を発掘するためのコンクールの開催、講演会や討論会の企画も行った。アンサンブルの芸術監督としてレパートリー拡大のために多くの作品を作曲したものの体系的な学びが不足していることを自覚しており、1930年に公演のために訪れたハルキウで出会った2人の若手作曲家ヴァレンティン・ボリソフとミコラ・コリャダの助言でハルキウ音楽演劇大学(現在のコトリャレフスキー記念ハルキウ国立芸術大学)に入学した。同大学では彼らの師でもあるセメン・ボハティリョフ(セミョン・ボガティリョフ)に作曲を師事し、1936年に同大学理論作曲学部を卒業。

    卒業後はウクライナ作曲家同盟ハルキウ支部の副議長を務めながら同支部の防衛音楽部門を率い、赤軍を音楽面で支援した。その傍ら市内のいくつかのアマチュア音楽サークルの顧問を引き受け、アマチュア音楽家と接点を持ち続けた。大祖国戦争が勃発すると中央アジアのアルマ・アタ(現在のアルマトイ)とアシガバートへ疎開し、1941-43年はウクライナ作曲家同盟の職務に従事しつつトルクメン作曲家同盟書記長としても活動した。1943年にキーウが解放された後ウクライナへ戻り、以後の生涯はキーウに定住した。依然として戦争は続いており、1944年には芸術家・音楽家団の一員としてルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィアへ進軍する部隊に従軍した。

    1954年から晩年の1990年までキーウ音楽院(現在のチャイコフスキー記念ウクライナ国立音楽アカデミー)で教え、音楽院長、教授、作曲科長を歴任した。教え子にユーリー・イシェンコ、ヴィタリー・フィリペンコ2)ミハイロ・ステパネンコ、ユーリー・シャモらがいる。妻を病気で亡くした後、長年の友人だったキーウ音楽院の同僚アリアドナ・リセンコと再婚した。アリアドナは作曲家ミコラ・リセンコの孫にあたるピアニストで、ピアノと管弦楽のための《ポエム・コンチェルト》(1977)、ピアノと管弦楽のための《交響的舞曲》(1980)などのシュトハレンコの作品の初演者でもある。

    ウクライナ作曲家同盟で1947-56年3)に副議長、1968-89年に議長に就き、並行してソ連作曲家同盟でも1948年の第1回総会から書記を務めた。作曲家としての名声が高まった1950年代以降はソ連構成共和国の各地を訪問し、聴衆の前に姿を現す機会が増えていった。この時期から東ドイツ、ポーランド、ブルガリアなど東欧諸国の音楽祭や音楽会議に作曲家同盟代表として幾度となく参加した。チャイコフスキー国際コンクールでは1970年に声楽部門、1974年にピアノ部門の審査員を務めた。1946年と1952年にスターリン賞(ソ連国家賞)を、1974年にシェフチェンコ記念ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国国家賞を受賞したほか、国家から多くの勲章を授与された。1970年ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国人民芸術家。1972年ソ連人民芸術家。1980年社会主義労働英雄。1992年11月15日キーウにて没。

    シュトハレンコの創作分野は、交響曲、声楽を伴う管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、合唱曲、歌曲、映画音楽など幅広く、なかでも交響曲と声楽を伴う管弦楽曲が重要な位置を占めている。ウクライナ・レーニン共産主義青年同盟を経てソ連共産党へ入党した経歴を持つシュトハレンコは、国家や共産党を称える作品を多数書いた。交響カンタータ《我がウクライナ》(1942-43)、ピアノと管弦楽のための組曲《パルチザンの絵》(1957)など大祖国戦争をテーマにした創作に力を入れた。諸民族の友好および青春・青少年も主要な創作テーマで、前者に声楽交響詩《ロシア》(1950)、弦楽四重奏曲《アルメニアのスケッチ》(1960)など、後者に管弦楽のための《青春の詩》(1959)、ピアノ三重奏曲《青春》(1961)などがある。このほか、管弦楽のための組曲《レーシャ・ウクラインカを偲んで》(1951)、交響曲第3番4)《キーウ》(1972)が当時国家から特に高く評価された。

    独唱・合唱と管弦楽のためのカンタータ・バラード《運河工事について》(1936)、声楽と管弦楽のための組曲《乙女の運命》(1937)など初期の作品ではウクライナ民謡の素材を用い発展させた。その後は民謡からの直接の引用は減少したが、シュトハレンコは民謡、叙事詩、舞踏、民俗楽器などのウクライナの民間伝承に深い関心を抱いており、それらの特徴(旋法、和声、イントネーション、構造など)を頻繁に使用した。明確なテーマを持つ記念碑的な作品が大半で、その性格は英雄的、叙事詩的、叙情的、風刺的、舞踏的である。民俗音楽へのアプローチ、和声やポリフォニーの手法、比喩的表現などに関し、ミコラ・リセンコ、ミコラ・レオントーヴィチ、ミコラ・コリャダ、ムソルグスキーボロディンリムスキー=コルサコフらウクライナとロシアの作曲家から影響を受けた。ソ連崩壊後、政治的なテーマを持つ大規模な作品が演奏される機会は著しく減少したが、近年は器楽曲や室内楽曲を中心にウクライナ内外の演奏会で取り上げられている。ピアノ曲に、3つのポエム《音楽家を偲んで》(1961)、《映像》(1970)、《絵画的練習曲集》(1978)などがある。

    なお、人名の英字表記はロシア語に基づく"Shtogarenko"が以前は一般的だったが、現在はウクライナ語に基づく"Shtoharenko"が主流となっている。

    [注]

     1) 楽器をガルモーニとする資料もある。

     2) アルカージー・フィリペンコの息子。

     3) 就任を1944年とする資料もある。

     4) 全6曲の交響曲の内訳がウクライナの資料とロシアの資料で異なり、《キーウ》はウクライナでは第3番、ロシアでは第4番の番号が振られている。

    参考文献:

    Виноградов 1973 — Виноградов Г. С. Андрій Штогаренко. К.: Музична Украiна, 1973. [Vinogradov G. S. Andriy Shtoharenko. Kyiv: Muzychna Ukraina, 1973.]

    執筆者: 舟山 太郎
    <続きを表示する>
    ※ アルファベット名の旧記載:Shtogarenko 表記ゆれの例:シュトハレンコ、シュトガレンコ

    作品(2)

    ピアノ独奏曲

    ★ 種々の作品 ★ (2)

    動画0

    解説0

    編曲0

    たのしく踊ろうよ

    調:ハ長調 

    動画0

    解説0

    編曲0