
解説:丸山 瑶子 (1302文字)
更新日:2018年3月12日
解説:丸山 瑶子 (1302文字)
1765年にヴィーンに生まれる。父親は元々、法学の道に進ませようとしていたが、家庭の経済的事情から音楽家へ進むことが許された。音楽的才能は早々と現れ、早くも8歳で私的コンサートにて腕前を披露、18歳で公開コンサートデビューを果たし、22歳になる頃には初のジングシュピール(ドイツ語による地の台詞が付いた音楽劇)を上演し、当時、モーツァルトやサリエリを始め、オペラ作曲家として多くの音楽家の崇拝を集めていたグルックからも賞賛されている。こうした経歴を見ると、もし法律家になっていたとしたら当時のヴィーンにとっては非常に惜しかっただろう。 当時の音楽家によくあるように、エーベルルも国際的な活動によって名声を広げていったようだ。2回のドイツへのコンサートツアーの中ではマイアベーアと共演しているほか、1796—99年と1801—1802年のロシア滞在では、ロシア皇室付きの音楽家として活動し、楽長職にも就いている。 ヴィーン帰国後はピアノ作品に限らず、その他の器楽曲の作曲家も手がけ、高い評価を受けている。中でも注目するべきは変ホ長調交響曲Op. 33である。これは伝わるところによれば、ベートーヴェンの《エロイカ》交響曲の半公開初演と同じ演奏会シリーズで上演され(1991年のシュロイニングの論では、エーベルルの作品が一週間後と推測されている)、これに対してライプツィヒの新聞評では、《エロイカ》に対するかなり手厳しい評に対し、エーベルルの方は好意的な高評価を受けている。こうした作曲活動の傍ら、ピアノ演奏家としての活動も続けており、当時の音楽批評の中にはエーベルルの演奏も報告されている(モーツァルトの弟子であり、女性ピアニスト、作曲家でもあるヨーゼファ・アウエルンハンマーJosepha Auernhammerと共演もしている)。 なお、エーベルルの初期ピアノ作品は多くがモーツァルトの名前で出版されていた(20世紀に入ってもなお、誤った情報が伝わっていた)。エーベルル自身も誤りを書簡にて正そうとしていたというから、これは出版社側に責任があるに違いない。しかしながらモーツァルト一家とエーベルルは親しくしていたようで 、彼がモーツァルトに師事していた可能性が指摘されるほか、エーベルルの演奏旅行にはコンスタンツェ姉妹も付きそったという。モーツァルトの名で作品が出版、後世まで混同されるということは、彼の初期作品にモーツァルトの影響が強く表れている、ということなのだが、見方を変えれば、彼の作品がモーツァルトと間違われるほどの水準にあったということでもあろう。事実、当時の新聞評には彼の作品に対する讃辞見られるし、また同時代人は彼をベートーヴェンと同等に評価していたとも言われている。 現存するエーベルルの作品の大部分はピアノ作品だが、先に触れた交響曲への好評からも読み取れるように、同時代の高い評価は決して鍵盤楽器作品だけに向けられたものではなかった。特に同時代人の間では優れた舞台音楽の作曲家として認められていたらしく、彼の舞台音楽作品が今では8作品しか伝わっていないのが非常に残念である。
解説 : 宮本 優美
(120 文字)
更新日:2010年1月1日
[開く]
解説 : 宮本 優美 (120 文字)
オーストリアのピアニスト、作曲家。幼いときからすぐれた音楽的才能を発揮し、8歳のときにはウィーンで私的なピアノ・リサイタルを開く。モーツァルトに師事したとみられるが、1788年以降エーベルルの作品がモーツァルトの名の下にたびたび出版される。
作品(27)
ピアノ独奏曲 (6)
ソナタ (7)
変奏曲 (6)
ピアノ合奏曲 (4)