レーガー 1873-1916 Reger, Max
解説:伊藤 翠 (2673文字)
更新日:2012年3月14日
解説:伊藤 翠 (2673文字)
19世紀末から20世紀初頭を生きたドイツ人作曲家。バイエルン州に生まれ、学校教師でアマチュアの音楽家でもあった父と、文学に深く親しんでいた母のもとで育った。生まれてすぐヴァイデンに移り、その地でピアノや弦楽器を弾き始めていたが、専門的な音楽教育を受け始めたのは11歳になってからである。当時、軍隊行進曲を暗譜で誤りなく演奏したレーガーの才能を見出したA. リントナーは、レーガーにバッハのインヴェンションやベートーヴェン、ロマン派のピアノ音楽を教え、同時に教会オルガニストの代行をもまかせるようになっていった。これは、レーガーが生涯オルガン音楽に親しみ、後にその大家となる基礎となった。
15歳になる1888年、バイロイト音楽祭を訪れて強烈な印象を受けたことで、音楽の道に生きる決心をするが、父に倣い国民学校の教師になるためヴァイデンの教員養成学校に進学した。この頃リントナーはレーガーの初期作品のいくつかを、テューリンゲンのゾンダースハウゼンで活躍していたリーマンのもとに送っていた。レーガーの両親は息子にバイエルンで教師になることを望んでいたため、バイエルンでの教師資格がとれないテューリンゲンではなく、ミュンヘンで活躍していたJ. ラインベルガーに師事させようとしたが、ラインベルガーはレーガーに芸術家として生きていくことの難しさを強く指摘したため、師の尽力もあって、レーガーはリーマンの弟子となった。
それからまもなくの1890年、レーガーは師とともにヴィースバーデンWiesbadenに移り、助手となった。リーマンは彼の並外れた理解のはやさを高く評価していたという。レーガーはここで作曲したヴァイオリン・ソナタを「作品1」とし自身最初の作品とした。この頃、ダルベールEugen d’AlbertやブゾーニFerruccio Busoniと友人になり、その一方でひどい飲酒癖も始まった。この飲酒癖は後に酔っぱらいの作曲家という伝説も生み、彼の国際的な名声をかなり傷つけることとなる。
このような室内楽曲やピアノ曲を中心とした順調な作曲活動は、1896年、兵役についたことから断たれてしまう。しかしこの兵役期間に身体と精神を病んだレーガーは、その2年後ヴァイデンの父母もとに帰り、静養することとなった。その後2〜3年間、彼は様々なジャンルで作品を残すが、その重点はオルガン作品に置かれ、1900年頃までには主要なオルガン作品のほとんどが完成された。特に、全7曲全てがこの期間に作られたコラールファンタジーは、レーガーをドイツロマン派におけるオルガン音楽の金字塔とさせた作品群だといえる。
1901年からはミュンヘンに移り作曲活動と友人らとの演奏活動をしながら、翌年にはエルザ・フォン・ベルケンと結婚し、二人の間に子どもが生まれなかったため孤児2人を養子にした。このミュンヘンでの年月は大変多産な時期で、大規模な室内楽曲やピアノ曲の他に、《素朴な歌 Schlichte Weisen》(作品76)や《5つの新しい子どもの歌 5 neue Kinderlieder》(作品142)など、子ども達への愛情あふれるような作品も書かれている。
そして1907年からは、ミュンヘンでの音楽論争にうんざりしたこともあって、ライプツィヒ大学における作曲科の教授兼音楽監督への任命を機に、教師としての熱心な活動を始めた。これによって国際的な名声がレーガーにもたらされ、1908年には名誉博士号を受けた。その後も数多くの栄誉を受けたレーガーの評価は国内外で高まり、同時に創作意欲も高められていった。オランダ、ベルギー、オーストリア、ハンガリー、ロシア、イギリスへ演奏旅行に赴いたのもこの時期で、作曲家・指揮者・独奏者として大きく成功した。特にロシアにおいては、当時戦争中であったにも拘らず大成功をおさめ、レーガーの死後8日後には追悼コンサートが開かれるほどであった。
このような大成功のもと、1911年には、芸術を愛好し「劇場の大公」と呼ばれたザクセン・マイニゲン公ゲオルク二世により、マイニゲンの宮廷オーケストラ指揮者に任命された。そしてゲオルク公自身とも友人となるが、1913年に宮廷生活への不満と体調不良から辞表を提出する。しかし離任する5日前にゲオルク公が亡くなり、第一次世界大戦(1914〜1918年)の影響もあって宮廷オーケストラが解散されてしまった。路頭に迷ったオーケストラ団員らに同情したレーガーは、コンサートを開いて彼らの生活を支える資金集めをしたという。
その後1915年からイェーナに定住し、この新しい地は彼に良い影響をもたらした。自ら「自由イェーナ様式」 と称する様式を確立し、ポリフォニックな様式による代表的作品を多く残した。新しい様式を確立し、再び大規模オルガン作品の作曲も始めたレーガーはこれ以降も作曲活動を精力的に続けていくつもりだったのだろう。しかし1916年の5月10日、オランダへの演奏旅行の帰りにライプツィヒへ寄り旧友と一晩過ごした後、戻ったホテルにて心臓発作と呼吸困難でその生涯を閉じた。
レーガーは43年という短い生涯、そして26年という短い作曲活動の中で多分野にわたる多くの作品を残した。その多作家な彼の音楽を、ひとつの統一された作風で認識するのはなかなか難しい。ロマン主義的、時に前衛的な色合いを強くみせる室内楽作品やピアノ作品が作品数としては多くを占めるも、レーガーをその大家とせしめたオルガン作品は、対して回顧的、つまりバッハをはじめとする北ドイツ・オルガン音楽の先人たちを意識したバロック的な色合いの強い音楽だからである。特にオルガン作品については、過多ともいえる和声の響きや激しいデュナーミク、超絶技法的な手法が目立ち、複雑で難解な「けばけばしい音楽」という印象を受けがちである。しかし、レーガー自身が「私はバッハ、ベートーヴェン、ブラームスを熱烈に賛美する者」として「彼らの音楽様式を発展させることに努める」と師への手紙で述べているとおり、彼の音楽はドイツ音楽の伝統的流れを根幹とし、ドイツロマン派の豊かな音楽性を取り入れながら独自の手法が展開された、非常に豊かな音楽である。
レーガーの音楽が後の時代に与えた影響を、明確に言及するのは難しい。しかし、彼の作品がベルクやヒンデミット、シェーンベルクらにとって研究対象であったという事実は、彼の後に続く作曲家に対するレーガーの重要性を少なからず証明しているといえるだろう。
作品(67)
ピアノ独奏曲 (13)
曲集・小品集 (22)
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