
解説:倉脇 雅子 (3113文字)
更新日:2020年8月10日
解説:倉脇 雅子 (3113文字)
ヨアヒム・ラフ(Joachim Raff, 1822-1882)は、交響曲第3番《森に》Op. 153(1869)及び第5番《レノーレ》Op. 177(1872)に代表される標題交響曲作家として知られている。しかし、曲種ごとの割合を実際にみると、彼の300曲以上に及ぶ作曲のうち、200曲以上がピアノ曲である。ピアノ曲は、オリジナルと編曲がほぼ同等の割合であり、協奏曲、室内楽、2台ピアノ、4手連弾、独奏に分類できる。また、彼の作風にはフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディとフランツ・リストの影響があるといわれている。
ラフはスイスで育った音楽家であるが、音楽活動はドイツを中心に行っている。以下に彼の生涯を5期に区分して述べる。
第1期(スイス、1822年~1845年)
ラフは、1822年にスイスのチューリッヒ湖畔にあるラーヘンで、教師のフランツ・ラフと群長の娘であったカタリーナ・シュミットのあいだに生まれた。幼少期に父親から音楽の手ほどきを受けて、ヴァイオリン、オルガン、声楽を教えられた。その後、地元のカトリック教会の合唱団員やオルガニストを務め、19歳で小学校の教師となった。当時、チューリヒ宮廷楽長であったフランツ・アプト等との交流のなかでメンデルスゾーンの作品を知る。その後アプトがラフの作品をメンデルスゾーンに紹介したことによって、メンデルスゾーンがラフのピアノ曲Op. 2からOp. 14までの出版をブライトコプフ・ウント・ヘルテル社に推奨し、1844年と1845年に各々刊行された。これらの作品は性格的小品が中心であり、抒情的な旋律線、あるいはオクターヴやアルペッジョを駆使したパッセージをもつ。このうち、練習曲形式による12のロマンスOp.8は、メンデルスゾーンへの献呈作品である。
また、この時期のもう一つの大きな出来事はリストとの出会いである。1845年バーゼルの演奏会でリストに面会して以来、ラフはリストから多くの助力を得ることになる。
第2期(ケルン、シュトゥットガルト、ハンブルク、1845年~1849年)
メンデルスゾーンやリストの励ましを受けて音楽家になる決意を固めたラフはケルンに移った。そこで彼はリストの紹介によるピアノ製造及び出版社のエック・ウント・ルフェーヴル社に勤めながら作曲を行う。この時期の書簡には、ラフ作品に対するリストのアドヴァイスが残されている。ケルンでの作曲は、第1期と同様に性格的小品やオペラを題材にしたピアノ曲が中心である。それらは、マインツ、ライプツィヒ、ハンブルクの各出版社から刊行された。また、ショット社からの依頼によって音楽誌『セシリア』の執筆も行った。
1846年にメンデルスゾーンが男声合唱祭出演のためにケルンを来訪する。その時メンデルスゾーンはラフと面会し、ライプツィヒで作曲を指導することを承諾した。翌年1847年1月にその計画について書簡を交換したが、メンデルスゾーンに不幸があり指導は実現しなかった。
次に、シュトゥットガルトでは、生涯の親友となるハンス・フォン・ビューローと出会う。フォン・ビューローは1848年の最初の演奏会でラフが手がけた、フリードリヒ・キュッケンのオペラによるファンタジーOp. 44を演奏した。また、1848年はラフが全4幕のオペラ《アルフレッド王》WoO14を完成した年でもある。彼は初演の交渉を各地の宮廷劇場と行ったが、当時は三月革命の戦禍を免れ得ない状況でありオペラ公演の目処は立たなかった。このような世情に加えて、ラフは彼自身の財政的困難に直面していた。困窮した末に彼は創作活動を断念し、定職に就くために音楽出版者のユリウス・シューベルトを頼ってハンブルクに赴く。シューベルト社でのラフの仕事ぶりは堅調であったが、当時ヴァイマル宮廷楽長であったリストからヴァイマルに来て音楽活動を再開するよう助言を与えられる。シューベルトの理解を得られたこともあり、ラフはリストのいるヴァイマルに向かう。
第3期(ヴァイマル、1849年~1856年)
1851年にラフは先ず、ヴァイマル宮廷劇場で彼自身の指揮によってオペラ《アルフレッド王》の初演を行った。また、この時期のピアノ曲には、当時の有名なオペラに基づく作品やサロン風小品の他に、ピアノ組曲(Op. 69、Op. 71、Op. 72)そして、ラフ自身のオペラや管弦楽のためのピアノ編曲版(独奏、4手連弾)が加わる。
ヴァイマルでの日常業務は、リストの補助として、庶務一般と手稿譜の整理、写譜であった。また、リストを尊敬してヴァイマルに集まった人びとによるサークルにおいて、ラフは古参的存在であり、1854年結成の新ヴァイマル協会に名を連ねた時期もあった。そして、フランツ・ブレンデルが編集者であった時期の『新音楽時報』の執筆も行っている。結果的に、ラフは自著の『ヴァーグナー論』(1854)に端を発した周囲との軋轢によってヴァイマルを離れることになる。しかし、その後のラフ作品の上演にはこの時期に知り合った演奏家や指揮者が多く関わっており、ヴァイマルで培った人脈が彼の音楽活動を支えていたことが分かる。
第4期(ヴィースバーデン、1856年~1877年)
創作活動の最盛期であり、作曲数が最多であるだけでなく様々な曲種や形式への試みがなされた。そして、交響曲第1番《祖国に》Op. 96(1859-1861)と祝祭カンタータ《ドイツの復活》Op. 100(1862-1863)という二つの受賞作品と、オーケストラ組曲第1番Op. 101(1863)の成功によって作曲家としての地位を40代はじめに確固たるものとした。
この時期のピアノ曲には、協奏曲、室内楽、独奏(ソナタ、変奏曲、組曲、性格的小品)がある。ラフには総じて作品を長大に作る傾向がみられる。これはピアノ曲においても曲の長さだけでなく、オクターヴ、重音、和音の連打、アルペジオのパッセージ、無窮動の動きを用いた音響の増幅や凝集性として表れる。このような作品例として、ピアノ組曲(ピアノ組曲第4番Op. 91(1859)、第5番Op. 162(1870)、第7番Op. 204(1876))があり、各々コジマ・ビューロー、パウリーネ・フィヒトナー、ゾフィー・メンターに献呈されている。フィヒトナーとメンターは、リストの愛弟子でありヴィルトゥオーゾとして名高いピアニストであった。また、1873年作曲のピアノ協奏曲Op. 185は、フォン・ビューローへの献呈作品である。このように、第4期のピアノ曲にみられるヴィルトゥオーゾ的要素にはリストと彼の門弟の影響がみられる。
第5期(フランクフルト・アム・マイン、1877年~1882年)
ラフは、1878年にヨーゼフ・ホッホの出資のもと、フランツ・ラハナーを顧問として創設されたホッホ音楽院の院長に任命される。彼はピアニストのクララ・シューマンと歌手のユリウス・シュトックハウゼンを招聘し、ヴァイマル期の同僚であるチェリストのベルンハルト・コスマンやピアニストのヨーゼフ・ルビンシュテーインを教授陣に加え、ラフ自身は作曲を担当した。音楽院の卒業生には、エドワード・マクダウェル、テオドール・ミュラー・ロイター等がいる。
第5期のラフは1882年に亡くなるまでにオラトリオと交響曲を作曲した。1882年に執り行われた音楽葬では、フランクフルト歌劇場の音楽監督であったオットー・デッソフが指揮を執り、1883年にはフォン・ビューローの指揮によって追悼演奏会がヴァイマル宮廷劇場で行われた。
解説 : 樋口 愛
(606 文字)
更新日:2007年10月1日
[開く]
解説 : 樋口 愛 (606 文字)
チューリッヒ近郊のラーヘンに生まれる。ピアニスト、作曲家、教師。シュヴィーツのイエズス会ギムナジウムで教育を受けた。1844年にピアノ曲op.2~6をメンデルスゾーンの推薦で出版される。1845年にフランツ・リストの演奏に影響を受け、彼についてドイツに行く。1846年ハンス・フォン・ビューロと出会い、生涯にわたる親交を結ぶ。1850年ワイマールにて楽長に就任したリストのもとで、楽譜の出版やパート譜の写譜、手稿譜の整理、編曲の手伝いなどの助手を務めた。1856年ワイマールでの職を辞し、ヴィースバーデンにて作曲に専念し、数多くの作品を遺した。1857年にピアノと管弦楽のための《Ode au Printemps op.76》では、ビューロの初演にて行なわれ、成功を収めた。1977年にフランクフルトのホーホー音楽院の院長に就任し、作曲の指導にあたった。門下生にエドワード・マグダウェル、ヨハネス・メスハールト、アレクサンダー・リッターらがいる。彼の初期の作風はメンデルスゾーンの影響を受けており、op.1~46まで全てピアノ曲を書いている。後、リストなどの「新ドイツ派」の標題音楽に、対位法の技法やソナタ楽章の作曲における構成力を融合させようと試みるため、標題つきの交響曲作品や、ロマン派の作曲家が用いた主題をとりいれた交響曲作品が数多い。ピアノ曲、交響曲の他、協奏曲、室内楽、歌劇など沢山の作品を遺している。
作品(138)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (2)
ピアノ独奏曲 (27)
スケルツォ (3)
曲集・小品集 (31)
組曲 (8)
練習曲 (4)
幻想曲 (4)
ワルツ (4)
カプリス (10)
性格小品 (16)
リダクション/アレンジメント (14)
トランスクリプション (3)
ピアノ合奏曲 (6)
室内楽 (2)
種々の作品 (4)
室内楽 (3)