ブーランジェ, リリ 1893-1918 Boulanger, Lili
解説:上田 泰史 (8340文字)
更新日:2018年3月12日
解説:上田 泰史 (8340文字)
フランスの作曲家。女性として初めてローマ賞を獲得した才媛でありながら、25歳の若さで没した。現在出版されているリリ・ブーランジェの詳細かつ唯一の伝記は、ジェローム・スピケの『リリ・ブーランジェを求めて』(Paris, Fayard, 2004)である。以下の記事では、主としてこの伝記に依拠しながら、リリ・ブーランジェの生涯について記述する。
1. 出自
リリには6つ歳上の姉ナディアがいた。2人はともに音楽家となるが、これにはブーランジェ家が二代にわたって続く職業音楽家の家系だったことが関係している。祖父のフレデリック・ブーランジェ(1777~?)はドレスデン生まれの音楽家で、革命期にパリ音楽院にチェロ科の生徒として入学し1等賞を得ている。彼は王政復古時代、1816年にパリ音楽院の朗唱教授に任命され1820年までこの職にあった。祖母のアリニェMarie-Julienne Halligner (1786~1850)は1809年にパリ音楽院で1等賞を獲得した歌手で、オペラ=コミック座でデビューした実力ある歌手だった。2人の息子でリリの「父」(「」をつけた理由は後述する)となるエルネスト・ブーランジェ(1815~1900)は作曲家で、やはりパリ音楽院に学び1835年にフランス学士院が主催する作曲家の登竜門であるローマ賞コンクールで大賞を獲得している。彼もその父と同様、1871年にパリ音楽院の声楽教授となった。リリの生前、エルネストは1870年にレジオン・ドヌール勲章を受け、1881年に芸術アカデミーの会員にも選ばれている。要するに、彼は音楽界のエリート中のエリートだった。彼女の母ライッサ・ミシェツキーRaïssa Mychetsky(1858~1935)は、ロシア系の貴族出身の女性とされ、エルネストの生徒の一人だった。エルネスト・ブーランジェが1877年に62歳で彼女と結婚したとき、ライッサは弱冠18歳だった。二人の間に初めて子どもが生まれたのは1885年のことで、エルネスティーヌ・ジュリエット(家族からはニーナと呼ばれた)と名づけられたが、1歳と6ヶ月亡くなった(原因は定かでない)。第一子誕生のとき、父エルネストは既に69歳だった。それから4年後、1887年、エルネストの誕生日にあたる9月16日にナディアが生まれ、1893年8月21日、父が78歳のときにオルガ=マリー=ジュリエット、つまり、リリ・ブーランジェが誕生した。リリの下には、1898年に生まれたレア・ブーランジェがいたが、生後5ヶ月目になくなった。
エルネストとライッサの結婚から7年を経て、高齢の父が次々に子どもを授かったことは、当然、様々な憶測を呼んだ。ジェローム・スピケも、これらの子どもが父エルネストの実子ではないという仮説を支持している。彼によれば、ナディアの実父はエルネストの友人ウィリアム・ブーヴァンスWilliam Bouwens(彼はニーナ、レアの名付け親でもあった)の息子で建築家のリシャール、リリの実父はピアニスト、パリ音楽院和声科教授として名声の絶頂あり、ブーランジェ家と非常に親しかったラウル・プーニョRaoul Pugno(1852-1914)である。事実を裏付ける決定的証拠はなく真実は分からないにせよ、ロイッサが生んだナディアとリリは、法律上、夫妻の嫡出子として両親の愛情を受けて育てられた。
2. 学習時代
音楽的家系に生を享けたリリだったが、幼少期、音楽の才能と同時に、将来彼女の生命を侵すことになる病の兆候が見られた。消化管に炎症を生じる病(クローン病)のために、リリの免疫力は低く、生涯、気管支の不調からくる咳や熱、腹痛などの体調不良に悩まされた。 自宅でブーヴァンスから数学、ネーグル嬢からフランス語の指導を受ける傍ら、リリは自ら好んで読書に時間を割いた。作曲家にとって、音符を書く上で数学的な抽象的思考は重要であるし、また歌曲やカンタータを書く上で文学的教養は不可欠である。自宅での良質で集中的な一般教養の修得は、彼女の著しい記憶力を開花させ、作曲における急速な知的成熟を助けた(但し、後にリリがヴィラ・メディチに滞在している間、サン=サーンスはフランス語の深い文学的理解を促している)。一方、姉のナディアは既に自宅でピアノ、和声、伴奏のレッスンを始めており、リリはごく自然に音楽的な環境に身をおいてピアノとオルガンで初見演奏や即興をするようになった。ナディアはパリ音楽院でヴィドールCharles-Marie Vidor(1844~1937)の作曲クラスに出席していたが、リリは姉と共になら、聴講生としてレッスンにもぐりこむこともできたであろう。彼女の最初の作曲の試みは1904年に遡る。父の友人で音楽院伴奏科教授のヴィダルPaul Vidal(1863~1931)に捧げた8小節のパッセージ(1904)、ナディアに捧げた《ピアノのための小品》(1905)、そして《ワルツ 変ホ長調》(1906)が10代初期の試作である。
本格的な作曲の学習は、1910年、若きパリ音楽院教授、ジョルジュ・コサードGeorges Caussade (1873~1936)の下で始まった。初めのうち、リリはコサードの自宅に通ったが、やがて指導は母の監視の下、自宅で行われるようになった。彼女の才能は直ちにコサードを魅了し、親しい師弟関係が築かれた。ナディアは後に「私がたいへん苦労してようやくものにしたことを、殆ど直観的に見出してしまうのでした」*1と回想している。
3. ローマ賞コンクール
1912年、元音楽院院長テオドール・デュボワThéodore Dubois(1837~1924)にフーガを見せたリリは、すぐにローマ賞コンクールに挑戦するよう勧められる。ローマ賞受賞者であった父エルネストの思い出、1908年にローマ賞に挑むも第2大賞の次席しか獲れなかった姉の存在、そして既にレッスンが100回を超えようとしていた教授コサードの深い愛情が彼女の意欲を搔立てた。その年のコンクールは本選まで進むも発熱により作曲が進まず落選した。5月とはいえ、パリから離れたコンピエーニュの個室に篭りきりで行われる試験は、病身のリリには大きな負担だった。だが、リリはコサードと二人三脚の歩みを止めず、音楽院でヴィダルのクラスに出席して翌年の試験に備えた。
1913年のコンクールには13名の受験者が応募した。フーガ書法の予選を5名の合格者中、2番で通過した。本選で作曲するカンタータの課題テクストはゲーテの戯曲に基づくウジェーヌ・アドニスの劇詩《ファウストとエレーヌ》だった。20歳になろうとしている彼女の作品は芸術アカデミーの審査で「主題に認められる知性、朗唱の正確さ。感性と情熱がある。詩的霊感。知的で色彩豊かな管弦楽。特筆すべきカンタータ」*2と評され、女性として初めてローマ大賞の首席を獲得する。この時、同じく大賞を得たのは同じくコサード、ヴィダル門下のデルヴァンクールClaude Delvincourt(1888~1954)だった。リリの《ファウストとエレーヌ》は同年11月にシャトレ座でピエルネGabriel Pierné(1863~1937)の指揮の下、コロンヌ管弦楽団と3人のソリストによって初演された。その若さと才能で一躍時の人となったリリは、11月、ポワンカレ大統領夫妻に招かれエリゼ宮で昼餐を共にした。
4. ローマ滞在
輝かしい成功の傍らで、1914年1月、ブーランジェ姉妹と家族のように交わっていたプーニョがモスクワで急死した。リリはこの悲しみを引きずったまま、イタリアに向けた旅行の準備をしなければならなかった。というのも、ローマ賞受賞者は伝統的にローマに留学し、ヴィラ・メディチの寄宿荘で4年間作曲に専念することになっていたからである。リリは母と共にヴィラ・メディチに到着した。初めての女性のグランプリ受賞者という彼女の立場は、この寄宿舎の規則改変を促した。本来、寄宿舎の規則は部外者の利用を認めていなかったが、厳格なベナールAlbert Besnardが館長になる1913年までは規則は殆ど反故にされ多くの部外者が寝泊りしていた。規則の引き締めに取り掛かっていたベナールは、独身のリリに付き添ってきた母の存在を問題視して芸術アカデミーに報告した。アカデミーは二度の会議を経てリリの病状を館長に伝え、付添い人の母との滞在を容認するよう通達を出した。
ローマ滞在中、リリはパリからきた留学生と親しく交わり、裕福なイタリア人たちのサロンに出入りもした。一方、課業の作曲も進め、フランシス・ジャムFrancis Jammes(1868~1938)の詩による歌曲集《空の晴れ間》などの作曲に取り組んだ。だが、第一次世界大戦の勃発により留学は中断を余儀なくされる。ブーランジェのヴィラ・メディチ滞在は約3ヶ月半で終わった。しかし、彼女はこの受賞によってイタリアの出版社リコルディとの年契約を取り付けることができ、作品の出版と月々の収入が保証された。
5. 病の進行と婚約
パリに戻ったリリは、家族と共にプーニョのいない生活の中に暮らしながら《空の晴れ間》を完成させた。だが、プーニョの死、留学の中断、開戦のショックは繊細なリリの心のみならず、体にも影響し始めていた。1915年初旬、頭痛、食欲不振に始まり発熱の症状が起こり、次いで大腸炎や虫垂炎とみられる諸症状が出るに至り、リリは病臥の日々を送った。それでも彼女は熱心に作曲に取り組み、3月末にトロカデロ宮で自ら指揮するカンタータ上演の準備にも余念がなかった。 4月4日、リリは近しい人物と婚約していた。その相手は2つ年下の――スピケによればナディアの実父ウィリアム・ブーヴァンスの息子の一人にあたる――ジャンだった。二人は、ジャンが1916年10月8日に21歳(当時の成年)になると同時に結婚するつもりだった。リリは、4月からこの日と「いま」を隔てる日数を手帳に書き込むようになった。「544、543、542」・・・。しかし、ジャンは後に軍の飛行隊に加わることとなり、晩年のリリに寄り添うことはできなくなる。
6. 国立音楽・朗唱院仏米委員会創立
初夏に病状が回復すると、リリは姉と共に建築家で芸術アカデミーの米国在仏特派員だったウィットニー・ワーレンWhitney Warren(1864~1943)の協力を得て、パリの有力な音楽家に呼びかけて国立音楽・朗唱院仏米委員会(Comité franco-américain du Conservatoire national de musique et de déclamation)を立ち上げた。この委員会は、第一次大戦で招集され戦地で戦い、あるいは捕虜となった作曲クラスの学生と卒業生の援助を目的としていた。ワーレンを委員長に据え、その下に名誉委員としてサン=サーンス、フォーレ、デユボワ、パラディーレ、シャルパンティエ、ヴィドール、ヴィダルが名を連ねた。当時、航空爆撃機や戦車、化学兵器の使用で多くの死者を出したこの大戦により、芸術家たちの間でも頻繁に訃報が聞かれるようになっていた。ヴィラ・メディチの館長ベナールの息子の一人も1915年に命を落としている。翌年にはローマ賞でグランプリを分け合ったデルヴァンクールも負傷し一命を取り留めている。オーケストラの人員も不足しており、1913年に作曲したリリのカンタータ《ある兵士の葬儀のために》の上演はコロンヌ管弦楽団とラムルー管弦楽団が合同で上演された。グレゴリオ聖歌《ディエス・イレ》が引用されるこの作品はピエルネの指揮で行われた。1916年には委員の門弟を中心にパリの主要な作曲家たちの多くがこの委員会に賛同した(但しピアニストのアルフレッド・コルトーはブーランジェ姉妹が主導権を握ることに不満を抱いていた。リリがナディアを連れ添いとして再度ローマに旅立つことになると、ヴィダルの弟子のアメリカ人作曲家兼外交官ブレア・フェアチャイルドBlair Fairchild [1877~1933]がコルトーとの摩擦を解消するために尽力することとなる)。
7. 再びローマへ
1916年2月、リリはナディアとともにニース、ジェノヴァ経由でローマに旅立った。この間、ナディアは自身の受け持つパリ音楽院のクラスを助手に任せておいた。ニースでリリは嬉しい知らせを受け取った。メーテルリンクが彼の『マレーヌ姫』と題する作品に作曲してほしいと依頼してきたのである。彼女は著名な作家からのオファーを心から喜んだ。再びヴィラ・メディチを訪れた彼女は早速《マレーヌ姫》の構想と作曲に取り掛かり、同時に合唱とオーケストラのための《詩篇130番「深き淵より」》の筆も進めた。ちょうどこの頃、フランス東部の街ヴェルダンでは独仏軍の激しい衝突が始まった。両国で70万人を超える戦死者を出すこととなるヴェルダンの戦いはリリを悲しませた。《詩篇130番》の作曲中、彼女は帰ることのない人々への思いを手帳に綴っている。3月、リリの体調は悪化し、多くの時間をベッドで過ごすようになった。この月から6月にかけて、微熱と脈拍の上昇が恒常的になった。作曲家のトマジーニVincenzo Tommagini(1878~1950)やカゼッラCasella夫妻が彼女を訪れ、ラヴェルMaurice Ravel(1875~1937)からも見舞いの葉書が届くようになったが、彼らに作曲のことは語らず、物心両面でナディアを支えとしながら黙々と作曲を続けた。
8. 帰国と最期
1916年6月13日、ナディアとリリはローマを発ち、ミラノ、ニースを経由して25日、パリに帰った。リリはメーテルリンクの優しい気遣いを受けながら《マレーヌ姫》を書き進めた。彼女は創作の手を止めることなく、夏の間にアルトとピアノの為の歌曲《深い悲しみの中で》を書き上げている。歌曲集《空の晴れ間》は完成していたが、リコルディ社で「従業員の3分の2が軍隊に召集」されていたせいで12月になっても校正刷りは出来ないでいた。
リリはパリの北西に位置するガルジャンヴィルの別荘で静養したが、彼女の心身を脅かす暗い影は、彼女の体内からだけでなく、大戦からも、そして近親者からも忍び寄っていた。9月3日、親しかったラウル・プーニョの娘ルネRenée Pugnoとその夫ジョルジュ・ドラキGeorges Delaquysの間に生まれた5歳の娘が高熱を出して亡くなった。精神的ストレスも影響してか、10月の後半、リリの容態は危機的な状況を呈するようになった。11月には少しずつ回復し、彼女はリコルディとメーテルリンクの詩による歌曲《反映》と《雲の晴れ間》の出版契約を交わすことができた。
1917年1月、リリは――恐らく母に伴われて――ボルドー近郊のアルカションに旅行した。母はしばらく滞在したのち、付添い人を残してパリに戻ったが、パリからはヴァンサン・ダンディ、サン=サーンス、ドビュッシー、ロジェ=デュカス、そしてメーテルリンクからも献辞や激励の言葉が書き込まれた写真カードが寄せられ、リリを元気付けた。リリは友人や先輩の声援を受けながらここで作曲に集中し、《マレーヌ姫》を書き進める傍ら、《詩篇130番》とオーケストラと合唱のための賛歌《仏教の古い祈り――全宇宙のための日々の祈り》を完成させた。海辺の空気は彼女の健康によい影響をもたらしたが、6月の初めにパリに戻ったときには腹痛の周期は次第に短くなり、痛みも烈しくなっていた。そのため、手術が決断され、翌月の30日に実行された。手術後、リリはガルジャンヴィルの別宅で過ごし、そこでピアノ連弾に興じたり、近くを歩ける程度には回復したが、11月になると再び「腸炎」が悪化した。
最晩年のリリの優先事項は《マレーヌ姫》を完成させることだった。彼女は何としてもこの大作を年内に仕上げたいと考えていた。彼女がこの作品に最後の力をかけたことは確かだが、翌年1月の進捗については何も分かっていない。このオペラの存在を裏付けるのは第一幕の初めの数景のスケッチのみである。この作品は完成していたが、消失したのではないかという説さえあるが、伝記作者のスピケはその可能性はないと見ている。むしろ、彼はリリ自身が破棄したか、さもなければナディアが妹の才能に「相応しからぬ」作品を破棄したということならば考えられなくもない、としている。
1月31日、リリは合唱曲、室内楽、ピアノ曲など7点をリコルディに譲渡した。丁度この日から3月半ばにかけて、ドイツの飛行機が散発的にパリを襲い、爆弾を落とした。その一つは、リリの住むバリュ通りから二百メートルの所に着弾したため、彼女はメズィ=シュル=セーヌの家に非難した(なぜこの地域に避難に適した家があったのかは謎とされる)。
最後の二ヶ月、リリの手紙は残っていない。筆を取ることができなかったリリは、おそらく姉ナディアの口述筆記により複調を用いた静かな白鳥の歌、ソプラノ、オルガン、弦楽四重奏、ハープのための《ピエ・イェズ》を完成させた。
3月15日、ナディアは司祭を呼び、リリに最後の秘蹟を与えてもらった。午後、リリはナディアと友人ミキ・ピレMiki Piréに看取られて息を引き取った。ナディアはもっともリリを想ってくれたロジェ=デュカスJean Jules Amable Roger-Ducasse(1873~1954)を呼び、彼の手を借りて棺とともにバリュ通りに帰宅した。葬儀はパリのトリニテ教会で営まれ、テオドール・デユボワの弔辞の後、リリは「父」エルネストの眠るモンマルトル墓地に埋葬された。
9. ピアノ作品
リリ・ブーランジェにとってピアノ作品は主要な創作ジャンルではなかったが、それでも8作品が残されている。この内、若書きの《ピアノのための小品》(1905)および《ワルツ 変ホ長調》(1906)はリリ・ブーランジェの著作権を管理するナディア・リリ・ブーランジェ国際センターによって閲覧が制限されているため、出版されていない。これに続くピアノ曲は1911年3月に完成された変ニ長調とロ長調の二曲の《前奏曲》である。この初期の作品は平野貴俊校訂による《リリ・ブーランジェピアノ曲集》(2015、カワイ出版)で初めて刊行された。リリが生前に出版したピアノ作品は、《古い庭から》、《明るい庭から》、《行列》、《主題と変奏》の4作である。これらは1914年5月から6月にかけて書かれ、リリの没後、1919年にリコルディ社から出版された。《行列》にはヴァイオリンまたはフルートとピアノ用のバージョンもある。これらの作品の内、《主題と変奏》が最も規模が大きく、技術的にも高度な作品である。平野貴俊氏のエディションでは、自筆譜とリコルディ版の間に見られる多くの興味深い異同が指摘されている。 このほかにも、1909年から1915年にかけて、破棄されたか、消失したとされるピアノ独奏またはピアノを含む器楽曲として以下の作品がある。《5つの練習曲》(1909)、《3つの練習曲》(1911)、《2つの練習曲》(ピアノ4手、1912)、《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》(1912-16)、《チェロとピアノのための小品》(1914)、《オーボエとピアノのための小品》(1914)。 ■「脚注」
*1-Jérôme Spycket,À la recherche de Lili Boulanger, essai biographique, Paris, Fayard, 2004, p. 126.
*2-Ibid., p. 182.
■参考文献 - Jérôme Spycket,À la recherche de Lili Boulanger, essai biographique, Paris, Fayard, 2004, p. 126. -Ibid., p. 182. - Annegret Fauser, Boulanger, (Marie-Juliette Olga) Lili, in New Grove Online, 2015年12月アクセス - 平野貴俊『リリ・ブーランジェ ピアノ曲集』、東京、カワイ出版、2015。