インドネシアのジャワ島のある街で、ガムラン音楽の新作のリハーサルをしているというので、現場に行った時のことだ。紙切れ1枚に数字譜が書かれ、それをもとに15人くらいのプレーヤーが演奏しているが、しばしば止まっては、あれこれ相談が始まる。作曲者らしき人はいるのだが、お構いなしだ。やがて皆が納得する作品ができあがる。ガムランには有名な曲が多くあるが、作曲者名が記されていることは、まずない。基本的には共同作品であり、匿名である。結果としてエッジの効いた曲は少なくなるが、個性よりも集合性を優先させる作品づくりに強い興味をそそられた。
私は様々なコミュニティ(例えば過疎地の人々、障害のある人、元ホームレスなど)で協働的な作品づくりをしているが、「私」はできる限り消し去り、そこにいる人々の声を最大限に聴き取ろうと努めている。10人いれば10の声があるわけだが、その10人は孤立した10人ではなく様々なネットワークに紐づけされている。そこでネットワークからの声もまた山彦のように反響する。その曖昧模糊とした声の集合の彼方から、時折、雲間に射す一条の光のごとくクリアな声が聞こえてくるのである。それが聞こえた時、作品は生き始めると思っている。
ガムラン音楽には「隠された旋律 lagutersembunyi」という現象が存在する。ガムランはゆったりとした旋律が豊潤な装飾的音群によって覆われた彩色的な音楽であるが、コアな聴き手はその音響を手がかりに「隠された旋律」を聴くという。聴き手の中でそれは具体的な旋律の像を結ぶ。
私には上記2つの話は繋がっているように思える。近年、コミュニティ・エンゲイジド・アートの実践が活発化してきているが、主に社会的価値が強調され美的価値への言及が少ない。その架橋を試みるのが私の仕事であると思っている。本作でも共同的な制作手法を用いたが、コロナ禍において私たちは集まることができなかったため、リモート制作を実施することとした。私からの投げかけに対して、様々な楽想やアイデアで応答していただいた今回のコミュニティの皆さん(下田展久、HIROS、西村彰洋、黒川岳、大井卓也、朝日山裕子、大畑和樹、和田悠花各氏)に深甚の謝意を表したい。(中川真)