作品概要
作曲年:1985年
楽器編成:ピアノ独奏曲
ジャンル:練習曲
総演奏時間:18分00秒
著作権:保護期間中
解説 (2)
総説 : 奥村 京子
(1829 文字)
更新日:2015年4月30日
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総説 : 奥村 京子 (1829 文字)
「秩序と混乱の均衡――多彩な連想が織り込まれた音楽」
リゲティは、1980年代に、コンロン・ナンカロウ(Conlon Nancarrow, 1912~1997)が作曲した人間では演奏不可能な複雑なリズム構造を呈した自動ピアノ作品を聴き、完璧に構築されているのにエモーショナルだと絶賛した。ナンカロウから強い刺激を受けたリゲティは、1985年から、生きているピアニストのためのエチュードを作曲し始めた。
リゲティは、1980年代から2000年頃までに、3冊のプロジェクト・ノートを書き残し、命が尽きるまで手放さなかったのだが、ノートから読み取れるひとつの傾向は、世界音楽に対する熱い眼差しである。彼の興味は、アフリカとアジアの音楽に集中している。アフリカの各地に根強く残る自然崇拝や呪術信仰に伴う儀礼、仮面舞踊、打楽器音楽、ポリリズム、非均整なリズム構造、狩猟採集民族ピグミーの複雑な声楽ポリフォニーに興味を持ち、アフリカ音楽研究の第一人者であるシムハ・アロム(Simha Arom,1930~)の講義を受講していた。アジアにおいても、タイの山岳民族の冠婚葬祭に伴う儀礼音楽や、グルジアの多声合唱音楽やクリマンチュリ、ミャンマーの複雑なヘテロフォニー、インドネシア・バリ島のガムラン音楽やケチャ、影絵芝居について調べた。ロックやテクノ、レゲエ、サルサ、ルンバなどの大衆音楽についても書き留めている。さらに彼は、絵画や建築だけでなく、有機化学や生化学、フラクタル図形などについても造詣が深い。
《ピアノ・エチュード集》は、リゲティの溢れるばかりの知識を背景に生み出された。どれほど難しい理論や計算がそこに組み立てられているのかと、私達は尻込むだろう。確かに、彼は自然界に存在する一貫性ある数字の配列や数学的な理論を偏愛したが、かつて信じた社会主義システムが期待外れに終わり絶望した経験から、たったひとつの教義や主義、原理を支持することを拒んだ。2001年の京都賞授賞式典でのスピーチにおいては、彼は、規則と一貫性がなければデタラメな作品が生まれるが、規則が厳密すぎると音楽の「精神」を殺してしまうと述べた。リゲティは、自分自身が選択した規則を半ば遵守し、半ば逸脱しながら、独自の連想を音楽に反映させているのである。
リゲティは次のように言う。「私の音楽は純粋ではない。それは、狂気じみた沢山の連想によって汚されている。なぜなら、私はとても共感覚的に考えるからだ。私はいつも形から音響を思い浮かべ、色や音響などから形を考える。その結果、絵画芸術や文学、ある種の学問的アスペクト、日常生活、政治的アスペクト、そのほかとても多くのことが、私にとって、実際にかなり重要な役割を果たしている。〔中略〕私の音楽は、決して標題音楽ではないが、とても強い連想を帯びている。」*1
実際のところ、《ピアノ・エチュード集》の各作品には、連想を引き起こすタイトルが付けられている。さらに、各作品の草稿を見た時、そのカラフルさに驚かされるだろう。リゲティは、2、3、4、5などの異なるリズムを同時に重ね合わせた時に発生する複雑なポリリズムや新たなリズムの周期性を把握するために、赤・黄・緑・青・紫・黒色などの鉛筆で、五線譜に縦線を引いている。彼は、ピアノ・エチュードの作曲時からレインボーペンシルを好んで使用するようになり、ポリリズム作品の草稿にカラフルな格子が混線し始めた。リゲティは、いかに規則を設定しそこから逸脱するかという、秩序と混乱の均衡を巧みに操作しつつ、多彩な連想を音楽の生地に織り込んだのである。
リゲティのエチュードは、身体のメカニズムに沿ったピアノ曲ではなく、一種の弾き難さがある。彼は、自動ピアノが実行する完璧な演奏に驚嘆し魅了されたが、機械的で非人間的な演奏を望んだわけではない。機械仕掛けのピアニストでありながらも、強烈な人間性を感じさせる演奏。システマティックに構築されているのに情感的な連想を引き起こす、生きている人間のエラーこそが、感動的かつ魅力的なリゲティ音楽の核であろう。
*1Klüppelholz, Werner. 1984 “Was ist musikalische Bildung?: Werner Klüppelholz im Gespräch mit György Ligeti”, Musikalische Zeitfragen 14, p. 70.
楽曲分析 : 奥村 京子
(1462 文字)
更新日:2015年4月30日
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楽曲分析 : 奥村 京子 (1462 文字)
《ピアノ・エチュード》 第1巻(1985)
第1番〈無秩序〉:Molto vivace, vigoroso, molto ritmico、リゲティの親友のひとりで彼に多大な影響を与えた20世紀フランスを代表する音楽家ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez, 1925~)に献呈されている。この作品では、秩序から無秩序へと崩壊していくプロセスが聴き取れる。右手は白鍵を弾き、左手は黒鍵を弾く。冒頭2小節は、3+5の音型を両手で同時に演奏するが、3小節目からは、右手と左手のアクセントの位置や小節線の位置がずれ始める。まるで毒が注入されたかのように、ぐらつき崩壊するが、途中で何度か秩序を取り戻す。
第2番〈開放弦〉:Andantino rubato, molto tenero、ブーレーズに献呈。完全5度の響きが特徴的な色彩豊かな作品で、印象主義音楽を彷彿させる。ヴァイオリンの開放弦を弓でそっと弾くように、柔らかく表情豊かに演奏される。リゲティは、最も尊敬する作曲家のひとりに、クロード・ドビュッシー(Claude Debussy, 1862~1918)をあげている。また、時間が凍結しているかのように静的なセザンヌの印象派絵画を愛していた。
第3番〈妨げられた打鍵〉:Vivacissimo, sempre molto ritmico、ブーレーズに献呈。この作品では、簡単な規則が設定されることによって複雑なリズムが生み出される。片方の手は、菱形で記譜された2~6つ音符を無音で押さえ込んでおくように指示されている。もう片方の手は、上昇、あるいは下降の旋律パターンを演奏するが、既に幾つかの音の鍵盤が押さえ込まれているために打鍵が妨げられる。
第4番〈ファンファーレ〉:Vivacissimo, molto ritmico, con alegria e slancio, フォルカー・バンフィールド(Volker Banfield)に献呈。2と3の単位を組み合わせたアクサクと呼ばれる披行的なリズム(この曲では3+2+3の組み合わせ)が、右手と左手を渡り歩きながら、終始一貫して反復される。そのアクサク・リズムに、様々な変則的リズムが重ね合わされることによって秩序が乱される。リゲティは最初、〈バルトーク〉というタイトルを付けるつもりだった。
第5番〈虹〉:Andante con eleganza, with swing, ルイーズ・シブール(Louise Sibourd)に献呈。セロニアス・モンク(Thelonious Monk, 1917~1982)とビル・エヴァンス(Bill Evans, 1929~1980)のジャズのピアニズムに閃きを得て作られた静かな間奏曲。リゲティは、タイトルが定まらないままこの曲を即興的に作曲し、完成後に〈虹〉というタイトルを付けた。
第6番〈ワルシャワの秋〉:Presto cantabile, molto ritmico e flessibile, ポーランドの友人達に献呈されている。この作品は、ピアニストが、同時に2、3、4種類の異なった速度で演奏しているかのように、錯覚させられる。リゲティは、アフリカ音楽の超高速パルスについて勉強し、複雑なポリテンポ作品を作曲出来るようになった。曲中では、16分音符のパルス上に、沢山の半音階的な下降旋律が現れ、様々に重なり合い、混乱が生じている。その混沌の様子は、エッシャーが描いた上下が分からなくなる無限階段の騙し絵を思い起こさせる。