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ヴェルフル 1773-1812 Wölfl, Joseph

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  • 解説:丸山 瑶子 (2256文字)

  • 更新日:2015年3月18日
  • ザルツブルク出身のヨーゼフ・ヴェルフルは、今日でこそ知名度が低いものの、生前、そして没後の評判は同郷のモーツァルトやハイドンと並べられるほどであり、また彼の功績を考えれば、特にピアノ曲のジャンルにおいては忘れてはならない重要な作曲家の一人に数え入れられる。

    ヴェルフルの青年期までの音楽経験はザルツブルクという出身地に負っているといってもいいだろう。というのも、ザルツブルク時代に彼は、当地の優れた音楽家から、様々な音楽分野の教育を受ける機会に恵まれてたからである。彼はモーツァルト一家のもとでヴァイオリンとピアノのレッスンを―それも興味深いことにレーオポルトとヴォルフガングだけではなく、モーツァルトの姉のナンネルからも―受け、一家と実に親密な関係を築いた。1783 年からはザルツブルク大聖堂の楽団 Kapellhaus に入団して合唱の経験を積み、レーオポルト・モーツァルトに加えてミヒャエル・ハイドンという優れた師も持つことになる。こうした音楽習得にとって贅沢な環境は、後々のヴェルフルの演奏家、作曲家としてのキャリアに多くの実りを付ける土壌となっている。

    モーツァルトとの繋がりは、1790 年にヴィーンに来てまもなく、ヴェルフルにとって価値ある成果をもたらした。これはヴォルフガングがヴェルフルを音楽家と信用していたことを物語る出来事でもあるが、モーツァルトの薦めによって、ヴェルフルはワルシャワのミハウ・クレオファス=オギンスキ Michał Kleofas Ogiński 侯爵(1765-1833)のピアノ教師となる。こうして故郷を出て早々、彼はワルシャワにて名声を確立する。1795 年の第3 回ポーランド分割の後、ヴィーンへ帰ってからも、ピアノ奏者ならびに作曲家として着々と歩を進めていく。奏者としての実力を裏付けるのは 1798 年に催されたピアノの競演である。結果は次点に終わったが、ここでヴェルフルはベートーヴェンと競うほどの演奏能力、即興技術を披露している。

    1799~1801 年のドイツ、ボヘミア、パリへの演奏旅行を経たのち、1805 年には彼の永住の地となるロンドンへ渡った。ここでヴェルフルは後の英国ピアノ史の発展を支える数多の弟子たちにピアノを教授する。その影響がどれほど重要だったかは、彼が英国ピアノ楽派の確立者と言われることから推し量れる。ヴェルフルは渡航僅か 7 年、1812 年に享年39 歳で歿するが、彼が既に生前から多くの尊敬を集め、ロンドンで認められていたことは、生前の批評記事のみならず、ヴェルフルの弟子が師に抱いていた評価の高さから伝わってくる。

    【演奏、作曲活動】

    ヴェルフルの音楽家としての活動は、自身が演奏者として頭角を現したピアノ作品のジャンルを越えて、多彩なジャンルへの広がりを見せている。その活動範囲を見ると、ザルツブルク時代に受けた音楽教育が彼にとっていかに重要な土台であったかを感じさせる。ヴァイオリンの習得は弦楽器のための室内楽の、大聖堂合唱団への参加は声楽作品の作曲時に大きな意味を持っていただろうし、舞台作品にはレーオポルトから任された通奏低音奏者としての経験が支えになったと指摘されている。しかしここではやはり、作曲家の生前の活動から考えても、音楽史的に見ても中心的と見做せるピアノ曲のジャンルに重点を置こう。

    ピアニストとしてのヴェルフルは、モーツァルトの弟子として引き継いだ明確なタッチ、輝くようなパッセージといった卓越した演奏技術や、当時のヴィルトゥオーゾの能力証明の一つであろう即興性に優れていたという。とりわけ故郷を出てすぐ後に同時代人からの評価を勝ち得たのは、この演奏技術に負うところが大きいだろう。その一方で、ヴェルフルが後進に尊敬された理由は、こうした巧みなだけではないだろう。それはヴェルフルが一介のヴィルトゥオーゾに終わらず、独自の様式を確立したり、弟子教育に努めた点が大きいと思われる。彼の手ほどきを受けた者の中にはイギリスの王立音楽アカデミーのディレクターに就任することとなるポッター Ph. Cipriani H. Potter がいるほか、19 世紀の代表的なピアノ音楽を多く作曲したリストとメンデルスゾーンにとってもヴェルフルが見本になっているといわれ、その面々を見るだけでヴェルフルのピアノ音楽発展に対する功績の大きさが読み取れよう。

    先述の通り、奏法に関してもヴェルフルは先進的な技術を使った。左手に自由に使う奏法や、現在まで英国に続くいわゆる「ヴェルフル・ジャンプ」と呼ばれる奏法がそれである。これはかの有名なリストの《ラ・カンパネラ》に繋がるテクニックとされ、特筆すべき点である。 ピアノ教授の面に目を向けると、彼はロンドンでの教授活動で非常に先鋭的な方法をとっていたという。ヴェルフルは J. S. バッハに傾倒しており、自らの作曲様式やレッスンで《平均律》を使っていたあたりにもそれは現れているのだが(《平均律》をレッスンで使うこと自体は珍しくはない)、その尊敬の深さゆえか弟子全員に《平均律》の全曲暗譜を課していたと伝えられている。また弟子のチャールズ・ニート Charles Neate によれば、イギリスで楽式論を教授に取り入れた初めてのピアノ教師がヴェルフルだったという。なお、ヴェルフル著作のピアノ教本には Op. 56『ピアノ・メソッド Méthode de Pianoforte』がある。

    執筆者: 丸山 瑶子
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    作品(7)

    ピアノ合奏曲 (1)

    種々の作品 (1)