尾高 尚忠 1911-1951 Odaka, Hisatada
解説:須藤 英子 (925文字)
更新日:2018年4月20日
解説:須藤 英子 (925文字)
1911年、東京に生まれる。幼少の頃から音楽に親しみ、成城高等学校在学中にピアノを渡辺シーリーに、作曲を片山穎太郎に学ぶ。1931 年、高校を中退し、ウィーン音楽アカデミーに 留学。ピアノをヤーン・ベイルに、理論をシュテールらに師事する。1年半学んだ後に一旦帰 国し、レオ・シロタにピアノを、プリングスハイムに作曲を学ぶ傍ら、武蔵野音楽学校(現・ 武蔵野音楽大学)で音楽理論を教える。
1934年、再びウィーンに戻り、アカデミー 作曲科マスタークラスにてヨゼフ・マルクス に、また指揮科にてヴァインガルトナーに師事。 1936年に作曲されたピアノ曲《日本組曲》は、 後に卒業作品として管弦楽版に編曲され、ヴァインガルトナー賞を受賞した。卒業後は指揮者 として、ウィーン交響楽団やベルリン・フィルにて活躍。
1940年に帰国した尾高は、翌年、NHK交響楽団の前身である新交響楽団にて、モーツァ ルトやブラームスの作品と共に自作の管弦楽曲を演奏し、指揮者・作曲家としてデビュー。 1942年からは、同交響楽団の常任指揮者となり、大戦末期から敗戦直後の混乱期にかけて、 献身的に活動した。 オーケストラ作品を中心に、 創作活動も積極的に展開。《ピアノと管弦楽の ための狂詩曲》 (1943)、 《交響的幻想曲「草原」》 (1944)、 《チェロ協奏曲》 (1944)、 《交響的歌曲「斎迫歌」》 (1945)、《ピアノとオーケストラのための協奏組曲》 (1946)など、多くの管弦楽作品を同交響楽団の演奏会で次々と発表した。 作品には他に、 《バイオリンとピアノのためのソナタ》(1932)、 《ピアノのためのソナチネ》 (1940)、 《ピアノ三重奏曲》 (1941)などがある。 その作風は、ドイツ・ロマン主義と日本的趣味 を、洗練された形で共存させたものと捉えられよう。
尾高はその後、戦中・戦後の多忙による過労が引き金となり、1951年、39歳の若さで死去。 一周忌には、没後受賞した文部大臣賞の賞金により、日本人作曲家のオーケストラ作品を対象とする「尾高賞」が設立された。妻はピアニス トの尾高節子。息子の惇忠は作曲家、忠明は指揮者として活躍している。
作品(9)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
管弦楽付き作品 (2)
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ピアノ独奏曲 (4)
種々の作品 (3)
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