
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (2515文字)
更新日:2022年9月30日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (2515文字)
ユゼフ・ヴィエニャフスキ Józef Wieniawski
(1837年ルブリン[ポーランド]~1912年ブリュッセル[ベルギー])
ユゼフ・ヴィエニャフスキは、ポーランドのピアニスト、作曲家、教育者、指揮者。ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、ヘンリク・ヴィエニャフスキを兄にもつ。1837年、ルブリンに生まれ、ごく幼い頃からピアノを習い始めた。1846年、母とともにパリに渡り、パリ音楽院でピエール=ジョゼフ・ジメルマンとアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルのピアノクラスで学んだ。1850年には同音楽院を優等賞付で修了している。1855年まで、兄ヘンリクとともに定期的に演奏会を開催した。その後、ユゼフはヴァイマールでフランツ・リストに、またベルリンでアドルフ・ベルンハルト・マルクスに師事し研鑽を積んだ。
1859年、ユゼフ・ヴィエニャフスキはワルシャワに移ると、朝や夕方に音楽の集いを催した。その後間もなくパリに戻り、同地でポーランドのオペラ作曲家スタニスワフ・モニューシュコの作品のプロモーションや出版事業の支援にあたった。1864年、モスクワでロシア音楽協会の教師としてのキャリアを開始し、ほどなく教授の地位に任じられている。ロシアには1870年まで滞在し、公私様々な音楽教育機関で、何百人もの生徒を指導した。その後ワルシャワに移り、他の音楽家らとともにワルシャワ音楽協会を設立、1875年には同協会会長に就任している。
1878年にフランスに渡り、ついでブリュッセル音楽院のピアノ講師を務めることになった。同地ではウジェーヌ・イザイとともに多くの演奏会を開催した。1889年、メラニア・ヒルズハイマーと結婚。1900年以降は独自にコンサートを企画し演奏活動を行った。1912年、ブリュッセルで没する。
ユゼフ・ヴィエニャフスキは、19世紀の最も傑出したピアニストの一人に数えられている。彼が手掛けた作品はピアノ曲やピアノを含む作品が中心であるが、室内楽曲、交響曲、歌曲なども作曲した。
<主要作品>
[ピアノ曲]
《ポルカ・ブリランテ》作品11(1852年)
《2つの牧歌》作品1(1854年)
《演奏会用ワルツ》作品3(1854年)
《ベッリーニの〈夢遊病の娘〉の動機による演奏会用幻想曲と変奏曲》作品6(1854年)
《サロン用ワルツ》作品7(1855年)
《2つの演奏会用小品:1.バルカローレ・カプリス(作品9),2.ロマンス・エチュード(作品10)》(1855年)
《タランテラ》作品4(1855年)
《束の間の思い》作品8(1856年)
《アダージョとロンド・ジョコーソ》(1857年)
《華麗なる幻想曲》(1858年)
《ポロネーズ》作品13(1858年頃)
《無言歌》(1858年)
《ワルツの思い出》作品18(1858年)
《メヌエット ニ長調》(1859年)
《ロンド》作品15(1859年)
《即興曲》作品19(1860年)
《ルブリンの思い出。ロマンスと変奏》作品12(1860年頃)
《ソナタ ロ短調》作品22(1860年)
《凱旋ポロネーズ》作品21(1862年)
《8つのマズルカ》作品23(1865年頃)
《8つの無言歌》作品14(1869年)
《幻想曲とフーガ》作品25(1875年頃)
《演奏会用練習曲》作品33(1875年頃)
《即興曲第2番》作品34(1875年頃)
《タランテラ第2番》作品35(1875年頃)
《演奏会用練習曲第2番》作品36(1875年頃)
《ポロネーズ第3番》作品27(1879年)
《演奏会用ワルツ第2番》作品30(1880年)
《舟歌》作品29(1884年)
《バラード》作品31(1884年)
《ノクターン》作品37(1884年)
《大洋で。瞑想曲 嬰ニ短調》作品28(1887年)
《4つのロマンティックな小品》作品39(1889年)
《演奏会用マズルカ》作品41
《技巧と様式の24の練習曲》作品44(1890年)
《夢》作品45(1890年)
《ヴァルス・カプリス》作品46(1890年)
《ポロネーズ第4番》作品48(1895年頃)
《ピアノのための小品》作品51
[室内楽曲]
ヴァイオリンとピアノのための《ソナタのアレグロ》作品2(1848年),ヘンリク・ヴィエニャフスキとの共作
《ドニゼッティの歌劇〈ランメルモールのルチア〉の主題による大二重協奏曲》作品6(1850年),ヘンリク・ヴィエニャフスキとの共作(遺失)
《ロシア国歌の主題による二重協奏曲》(1851年),ヘンリク・ヴィエニャフスキとの共作
ヴァイオリンとピアノのための《フィンランドの動機による二重奏曲》(1851年)
ヴァイオリンとピアノのための《大二重ポロネーズ ニ長調》作品5,ヘンリク・ヴィエニャフスキ(作品8)との共作
ヴァイオリンとピアノのための《ソナタ ニ短調》作品24(1875年頃)
チェロとピアノのための《ソナタ ホ長調》作品26(1875年頃)
《弦楽四重奏曲 イ短調》作品32(1880年頃)4手ピアノ用の編曲版も
《ピアノ三重奏曲 ト長調》作品40(1885年頃)
独唱とピアノのための《2つの歌曲:1.ズモルスキの詩による〈春の歌〉(1859年),2.ヴィヘルスキの詩による〈秋の歌〉(1884年)》作品17
独唱とピアノまたはオルガンのための《オストラ・ブラマの聖母マリアへの祈り》作品16(ポーランド語、ラテン語、ドイツ語の3言語版)(1860年)
《4つの歌曲》作品38(1883年、87年)
《6つの歌曲》作品47(1895年頃)
《6つの歌曲》作品50
[管弦楽曲]
《交響曲 ニ長調》作品49(1890年)
《序曲 ニ長調》(1856年?)
《序曲 ホ長調》作品28(1862年?)4手のピアノのための編曲版
序曲《沈黙のギヨーム》作品43(1897年)4手のピアノ版
序曲《ヴィルヘルム・オランスキ》(初演1897年)
《ロマンティックな組曲》作品41(ユゼフ・ヴィエニャフスキによるピアノ編曲版。1905年頃)
《ピアノ協奏曲 ト短調》作品20(1858年)
《幻想曲》作品42(2台ピアノまたは2台ピアノと管弦楽版(1886年頃),2台ピアノ版(1888年頃)
解説 : 金澤 攝
(291 文字)
更新日:2007年11月1日
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解説 : 金澤 攝 (291 文字)
ポーランドの名ヴァイオリニスト、ヘンリーク・ヴィエニフスキ(1835-1880)の弟。10歳でパリ音楽院のに入学。ツィメルマンとマルモンテルにピアノを師事。二年後には早くも一等賞を得て、兄の伴奏者としてのキャリアをスタートさせる。ヘンリークの作品ほとんどのピアノ・パートはジョセフが書いたものと言われ、奔旅」な兄とは対照的に堅実は性格がその書法から伺える。
1866年、モスクワ音楽院創設のおり、ニコライ・ルビンシュタインの下で、教職に就くが、後、ワルシャワを経てへブリュッセル音楽院へ移り、この地で生涯を終えた。ピアノ曲を中心に交響曲、室内楽曲、歌曲を含む50点あまりの作品がある。
作品(43)
ピアノ独奏曲 (21)
練習曲 (4)
ワルツ (6)