ダムケ, ベルトルト 1812-1875 Damcke, Berthold
解説:上田 泰史 (1735文字)
更新日:2018年3月12日
解説:上田 泰史 (1735文字)
ベルトルト・ダムケはドイツのハノーファー出身の作曲家、ヴィオラ奏者、オルガニスト、指揮者で、著述家、教育者としても国際的に活躍した。神学を学んだのち、フランクフルトでピアノ教師・作曲家のアロイス・シュミット、ベートーヴェンの弟子フェルディナント・リース、更に1828年、メンデルスゾーンと並びバッハの一連の《マタイ受難曲》復活上演指揮に参加したJ. N. シェルブレの下で学んだ。演奏家としては10代でハノーファーの劇場のヴァイオリン奏者となり、34年からは同地の宮廷でヴィオラ奏者を努めた。 やがてダムケはクロイツナッハ、ポツダム、ケーニヒスベルク、ベルリン、サンクトペテルブルクを巡り、愛好家による合唱団のために数々の合唱曲やオラトリオ、詩篇曲、カンタータを作曲する機会を得るようになる。1841年にはロシアに移りサンクトペテルブルクで教師として過ごし、45年にはベルリオーズの《幻想交響曲》の上演にも参加した。同年の夏、ダムケは初めてパリを訪れたが、すぐにロシアに戻り、53年の暮れまでここで過ごした。その後4年間ブリュッセルに住み、著名なチェリスト、アドリアン=フランソワ・セルヴェの妻の妹、ルイーズ(旧姓フェギーヌ)に出会い、結婚した。ルイーズはアドルフ・フォン・ヘンゼルトに学んだ優れたピアノの愛好家でもあった。 1859年、ダムケはパリに移住した。ここで彼は年下の著名なメゾ・ソプラノで作曲家のポーリーヌ・ヴィアルド(旧姓ガルシア、1821~1910)の協力を得て頭角を現し始める。ヴィアルドは親しみを込めて博識で才能溢れる音楽家ダムケを「我が小さなベートーヴェン」と呼んだ。2人はベルリオーズと当時オペラの古典的大家としてしばしば上演されていたグルックの作品への敬意で結ばれており、ダムケはのちにグルック作品の校訂も手がけた。彼のエディションは、ファニー・ペルタン(連弾用《大ソナタ第2番》作品55を献呈)によって出版された。 ヴィアルドの他に、彼はパリで一流の音楽家たちと深い絆で結ばれた。ベルリオーズと1860年代に親交を深め、ダムケを中心とした音楽サークルが形成された(ベルリオーズはダムケを自身の遺言執行人に指名している)。ピアニスト兼作曲家ではステファン・ヘラー(連弾用の《大ソナタ第1番》を献呈、ヘラーからは《カンツォネッタ》作品100および《〈魔弾の射手〉に基づく3つの練習曲》作品127の献呈を受けている)、L. クロイツェル(1817~1868)、ヴァイオリニストのランベール・マサール(1811~1892)とその妻ルイーズ=アグラエ・マサール(1827~1887)、さらにクララ・シューマン、モシェレス(チェロ又はヴァイオリンのための《ソナタ》作品43を献呈)、アントン・ルービンシテイン、ヴァイオリニスト兼作曲家のJ. ヨアヒム(1831~1907)、音楽理論家・批評家のドルティーグといった名手たちが彼の家に集った。 1870年に普仏戦争が勃発すると、ダムケ夫妻はヘラーとスイスに逃れ、動乱が去ったのを見計らって再びパリに戻ったが、振戦麻痺の症状が出始め、1875年、妻を残してパリに没した。 ダムケの作品は合唱、歌曲、室内楽、ピアノ作品を含み、作品番号で57番までが確認されている。 【参考文献】 -Alexandre Bibeso, Berthold Damcke : étude biographique et musicale, Paris, Paris A. Lemerre, 1894. - Jean-Jacques Eigeldinger, Stephen Heller Lettres d’un musicien romantique à Paris, Paris, Flammarion, 1981, Fayard, 2003. - E. Kocevar et J.-M. Fauquet, « Damcke, Berthold », Dictionnaire de la musique en France au XIXe siècle, Paris, Fayard, 2003, p. 343.
作品(3)
ピアノ独奏曲 (1)
曲集・小品集 (2)