解説:舟山 太郎 (1578文字)
更新日:2026年10月8日
解説:舟山 太郎 (1578文字)
作曲・教育・出版・社会活動など幅広い分野で活躍したロシアおよびソ連の音楽家。1890年、ロシア帝国ドン軍管州(現在のロストフ州)タガンログに生まれ、9歳からピアノを習い始めた。ロストフ帝国中等音楽学校(現在のロストフ芸術大学)ピアノ科を経て、1907年にサンクト・ペテルブルク音楽院ピアノ科へ入学した。1910年に作曲科へ転科し、ヤーゼプス・ヴィートルスに師事。同音楽院を1914年に卒業した後はピャチゴルスクでピアニストおよび個人教師として、ロストフ・ナ・ドヌーでミニチュア劇場の合唱指揮者として活動した。1917年にボリシェヴィキ(のちのソ連共産党)に入党。北カフカスでソヴィエト政権樹立のために戦った。1920年にモスクワに移住し、赤軍政治局の音楽指導者となった。1921年からプロレタリア文化啓蒙団体であるプロレトクリトの情報部長を務めるかたわら、教育人民委員部(のちの教育省)民族誌学課にも加わった。1921年に国立出版局音楽部門の扇動・啓蒙部長に任命され、同部が廃止される1933年までこの役職を務めた。1924年には当時ソ連の国歌だった《インターナショナル》の音楽統一委員長として、それまで同曲に生じていた演奏者による音楽の相違の解消に尽力した。1923年に発足したプロレタリア音楽家協会の創設者の一人だったがイデオロギーの相違から脱退。同じく脱退したミハイル・クラセフ、クリメンティ・コルチマリョフらとともに1925年に革命的作曲家・音楽家協会を創設した。同協会では1926-28年に機関誌『音楽と革命』の編集長を務め、おおよそ毎月発刊した。1934年からフルンゼ記念軍事アカデミー附属音楽技術学校の校長を務めた後。1936年にモスクワ音楽院へ移り、同音楽院に設置されたウズベク・オペラ・スタジオ1)の責任者に就任した。1938年からは同音楽院トルクメン部門2)でも音楽理論を指導した。大祖国戦争中はチカロフ(現在のオレンブルク)へ疎開し、チカロフ中等音楽学校(現在のロストロポーヴィチ記念オレンブルク国立芸術大学)で教鞭を執った。1968年、モスクワにて没。
シュリギンの創作活動の中心は声楽曲だった。合唱とピアノのための《メーデー賛歌》(1922)、合唱と管弦楽のための《祖国に栄光あれ!》(1947)、独唱・合唱とピアノのための《レーニンはどこでも私たちとともに》(1956)など共産党や国家をテーマにした作品が多いが、政治的なテーマを持たない歌曲や器楽曲も書いた。子ども向けのピアノ曲を25曲収録した《子どものアルバム》(1964)では、ソ連の民謡・ソ連でよく知られた童話・日常生活・自然・党など各曲のテーマは多岐にわたる。全音から出版されている〈おしゃべりなハエ・エチュード〉はこの曲集の収録曲だが原題は〈ハエのツォコトゥハ〉といい、コルネイ・チュコフスキーの同名の童話を基にした曲である。そのほかのピアノ曲に、《20の小品》(1945)、《ヤクート民謡の主題による小組曲》(1945)、ピアノ連弾のための《10のロシアの歌》(1944)などがある。
[注]
1) 1930年代、ソ連構成共和国および自治共和国の音楽人材を育成するためにモスクワ音楽院内に各国のオペラ・スタジオが設置された。ウズベク・オペラ・スタジオは1935年に開設され、ウズベクの若手音楽家が学んだ。
2) 1935年に開設。名称は統一されていなかったがオペラ・スタジオと同様の教育機関。
参考文献:
Шульгин 1964 — Шульгин Л. В. Детский альбом. М.: Музыка, 1964. [Shulgin L. V. Detsky Albom [Children's Album]. Moscow: Muzyka, 1964.]
