コハンスキ 1887-1934 Kochanski, Paul
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (894文字)
更新日:2022年9月30日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (894文字)
パウル・コハンスキ(パヴェウ・コハンスキ)Paul Kochanski (Paweł Kochański)
(1887年オデーサ[ウクライナ]~1934年ニューヨーク[米国])
パヴェウ・コハンスキは、20世紀前半におけるポーランドの最も優れたヴァイオリニストの一人。1887年、オデッサ(当時はロシア帝国領。現ウクライナ)でポーランド系ユダヤ人の両親のもと誕生した。幼少の頃から父親とヴァイオリンを弾き、音楽の教えを受けた。次いで彼の師となったのはエミル・ムウィナルスキだった。ムウィナルスキは1898年にワルシャワに定住しワルシャワ・フィルハーモニーを創設した人物だが、1901年、彼はコハンスキをフィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに招聘した。
その後、コハンスキはヨーロッパ全土で演奏活動を行い、各地を転々とした。1907年にワルシャワに戻ると、同地の音楽院のヴァイオリン科教授に就任する。第一次世界大戦勃発後はロシアに渡り数年間滞在した。自身のキャリアの絶頂期にアメリカに渡ると、1924年に永住権を得て、ニューヨークのジュリアード音楽院の教授となった。
コハンスキはヴィルトゥオーゾとして高い評価を受けており、アルトゥル・ルビンシュタイン、カロル・シマノフスキ、パブロ・カザルスをはじめとする一流の演奏家と共演した。また世界的に著名な作曲家の多くが彼に作品を献呈している。彼のレパートリーは非常に幅広く、独奏曲から管弦楽を伴う楽曲にいたるまで、ヴァイオリンのために書かれた作品はほぼすべて網羅していた。コハンスキ自身は作曲家としては名をなさなかったが、シマノフスキ、ビゼー、ショパンなど他の作曲家の作品を数多くヴァイオリン用に編曲しており、知名度も高い。
1934年、コハンスキはがんによりアメリカで亡くなった。彼はかねてよりカロル・シマノフスキがヴァイオリン作品を作曲する際に協力をしていたが、最期の数か月間もシマノフスキの《ヴァイオリン協奏曲第2番》の完成にあたり助言を惜しまなかった。この作品はコハンスキの死後に出版されたが、正式に彼に献呈されている。
作品(1)
室内楽 (1)
トランスクリプション (1)