シュピルマン, ウワディスワフ 1911-2000 Szpilman, Władysław
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (2133文字)
更新日:2022年9月30日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (2133文字)
ヴワディスワフ・シュピルマン Władysław Szpilman
(1911年ソスノヴィエツ[ポーランド]~2000年ワルシャワ[ポーランド])
ヴワディスワフ・シュピルマンは、ユダヤ系ポーランド人の作曲家、ピアニスト、編曲家。1926年、ワルシャワの音楽高等学校〔現ショパン音楽大学〕に入学し、ピアノをユゼフ・シミドーヴィチに、楽理と対位法をミハウ・ビェルナツキに師事した。1931年に奨学金を得てベルリン芸術アカデミーに入学し、アルトゥール・シュナーベルとレオニード・クロイツァーのもとで研鑽を積む。このベルリン時代に、彼にとって最初期の作品にあたる組曲《機械の一生》や管弦楽曲などが作曲された。
1933年、国家社会主義的傾向が強まり、ヒトラーが政権を掌握するに至り、シュピルマンはポーランドに帰国、アレクサンデル・ミハウォフスキにピアノのレッスンを受けることになった。また著名なヴァイオリニスト、ブロニスワフ・ギンペルとデュオを組んで共演するようになり、二人の演奏は大変な好評を博した。1935年、ポーランド・ラジオのピアニストとして採用され、第二次世界大戦勃発までラジオ局に勤務した。ポピュラー音楽へ関心を持つようになったのはこの時期である。
1939年9月23日、ヴワディスワフ・シュピルマンがラジオ局でショパンの曲を演奏している時だった。ドイツ軍の爆撃によりワルシャワの発電所が破壊され、放送もストップした。その後6年間にわたりポーランド・ラジオの放送は途絶えることになった。1940年、シュピルマン一家はワルシャワ市内のゲットーに連行される。一家の生活を支えたのは、シュピルマンがカフェやコンサート・ホールで演奏することで得る収入だった。ヴワディスワフ・シュレンゲルの詩による歌曲《カサノヴァ》をはじめとする多くの作品がこの時期に書かれている。1942年、彼の家族はトレブリンカ絶滅収容所に強制連行されたが、この時、偶然の采配により彼は一家と同じ運命を辿らずにすんだ。
ゲットーの中でシュピルマンは土木作業員として働いていたが、約1年後、ゲットーから抜け出すことに成功した。彼は、レヴィツキ夫妻やボグツキ夫妻といった友人たちの手助けのお陰でワルシャワ蜂起勃発の瞬間まで隠れ家に潜み、生き延びることができた。しかしやがて頼る知り合いもいなくなってしまうと、彼は破壊された家の廃墟の中に身を隠した。その潜伏場所はドイツ軍のヴィルム・ホーゼンフェルト大尉に発見されてしまう。しかし大尉はシュピルマンに食糧や衣服を差し入れるようになり、お陰で彼は終戦までそこで生きながらえることができた。
1945年、シュピルマンはポーランド・ラジオに復職し、まずは音楽部門の副部長に、後に軽音楽部門の部長となった。1946年、彼はイェジー・ヴァルドルフとともに、戦時中の自身の体験を綴った著書『ある都市の死』を出版した。ラジオでの仕事に加え、ソロピアニストやオーケストラの指揮者として演奏会に出演したり、「ソポト国際歌謡祭」をはじめとするフェスティバルや様々なコンサートの共同開催者となるなど活躍した。またヴァイオリニストのギンペルとともに結成した「ワルシャワ五重奏団」は大変な人気となった。
シュピルマンはおよそ500曲におよぶポピュラーソングを作曲したほか、映画音楽、ラジオドラマ用の音楽、さらには管弦楽曲なども手掛けている。2000年7月6日、ワルシャワで没した。
2002年、映画監督ロマン・ポランスキにより、ヴワディスワフ・シュピルマンの伝記をもとにした映画《戦場のピアニスト》が製作・公開されている。
<主要作品>
《ヴァイオリン協奏曲》(1931年)
ピアノ曲《トッカティーナ》(1931年)
ピアノのための組曲《機械の一生》(1931年)
弦楽合奏曲《古い様式のワルツ》(1937~68年)
ユリウシュ・ガルダン監督の映画《Wrzos(ヘザー)》のための音楽(1938年)
ユリウシュ・ガルダン監督の映画《Doktór Murek(ムレク博士)》のための音楽(1939年)
ピアノ協奏曲《コンチェルティーノ》(1940年)
ピアノ曲《マズルカ》(1942年)
独唱と2台ピアノ、管弦楽、ジャズオーケストラのための《ルドミル・ルジツキの歌劇〈カサノヴァ〉よりワルツによる変奏曲》(1945年)
管弦楽曲《創作主題によるパラフレーズ》(1947年)
管弦楽曲《黒人の歌》(1949年)
管弦楽曲《2つのワルツ》(1951年)
ピアノ曲《3つのミニチュア》(1952年)
ヨアンナ・ロイェフスカ監督の映画《Zawsze pierwsi(いつも一番)》のための音楽(1953年)
ヤロスラフ・マフ監督の映画《Zadzwońcie do mojej żony(わが妻に電話せよ)》のための音楽(1958年)
童話《赤ずきんちゃん》のための音楽(1958年)
管弦楽曲《小さい序曲》(1968年)
喜劇《カロルのおばさん》のためのバレエ音楽(1968年)
管弦楽曲《バレエの情景》(1968年)
《ピアノのためのささやかな作品》(1972年)
ヤヌシュ・ザオルスキ監督の映画《サッカー・ポーカー》のための音楽(1988年)