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ザレンプスキ 1854-1885 Zarębski, Juliusz

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  • 解説:楠原 祥子 (2865文字)

  • 更新日:2014年11月5日
  • 1854年2月28日または3月3日生まれ~1885年9月13日

    ポーランド人ピアニスト・作曲家・教授。16歳からほぼ全生涯にわたって国外で音楽活動を展開し、31歳の若さで早逝した異色の存在。現在のウクライナ領ジトミェシュで、氏族の家系である父カロルと母アナスタージアの第2子として生まれた。誕生日は、書類に2月28日と3月3日と両方の記載があり決定性に欠ける。

    1860年、母の手ほどきでピアノを始め、その後ルチンスカという女性教師と、チェコ人ヴァイオリニストのネスヴァトバにレッスンを受ける。1865年10歳の時にはジトミェシュ周辺のサロンで、自作の曲でコンサートをするほどの才能を見せていた。

    1870年―72年にはウィーンの音楽院でピアノをヨーゼフ・ダクス、作曲法をフランツ・クレンのクラスで学ぶ。ピアノを最優秀で、作曲は卒業制作曲『ピアノトリオ 変イ長調』で金メダルを得て卒業。

    1873年にはペテルスブルグ音楽院に移り、5月にピアノと作曲でディプロマを得て修了。故郷ジトミェシュに戻りヴィルトゥオーゾピアニストとしてコンサート活動を開始。1874年にはオデッサとキエフでリサイタルを行う。20歳のザレンブスキはローマに渡りフランツ・リストに師事。リストは彼のピアノと作曲の才能を高く評価し、1876年8月バイロイトワーグナー音楽祭など数多くのコンサートツァーに同行させて共演した。ザレンプスキも生涯リストを師として仰ぎ、深い尊敬の念を抱き続けた。

    1875年より主に貴族階級でピアノレッスンを始める。この頃、同じくリストのもとで学んでいたドイツ人ピアニストで後の妻ヤニナ・ヴェンゼルと出会っている。

    1876年にはローマ、ナポリ、コンスタンチノープル、ワルシャワと活躍著しくコンサートツァーを続け、1877年3月17日パリデビューを飾るに至った。この時期のレパートリーは、主にショパン、ベートーヴェン、リスト、そして自作の『大幻想曲 愛の間奏曲つきアジタート 変ロ短調』だった。

    1877年11月、パリ・ベルリン・ウィーンでリトルフ(Henry Litolff 1818-1891イギリス出身作曲家/ピアニスト)のピアノ協奏曲第4番を演奏し成功をおさめる。12月4日にはヤニナ・ヴェンゼルとベルリンでリサイタル。

    パリでザレンプスキの演奏は評判になり、1878年3月ピアノ制作者兄弟Eduard & Alfred Mangeot (エドゥアルド&アルフレッド・マンジョー)は、彼らが考案した2段鍵盤ピアノ(通称マンジョーピアノ)のプロモートピアニストを依頼。この新しい楽器をザレンプスキはわずか2カ月間で弾きこなし、1878年5月10日、パリ音楽研究所でザレンプスキによるマンジョーピアノ披露コンサートが行われた。6月のパリ万博でも同ピアノで演奏し聴衆を大いに沸かせた。“Le piano a clavier renverses”のパンフレットに、マンジョーピアノの構造、演奏法、ダブルの大譜表の記譜法などを詳しく解説し、生涯マンジョーピアノでのコンサートを行ったが、作品を書き残しはしなかった。

    1939年までザレンプスキが演奏したマンジョーピアノがワルシャワ音楽院に残っていたが、大戦で焼失。

    1879年故郷ジトミェシでヴェンゼルと結婚、翌年一人娘ヴァンダが生まれている。11月29日ブリュッセル音楽院でリサイタル。通常のピアノとマンジョーピアノ両方で演奏して成功をおさめ、それにより1880年1月30日同音楽院のピアノ科教授に就任、永住することになる。この頃から肺を病み、結核の兆候が出始める。

    1879年よりザレンプスキの作品は、ショット(マインツ)、 シモン(ベルリン)、 ブライトコップ&ヘルテル(ライプツィヒ)、 フォルベルク(ライプツィヒ)、クランツ(ブリュッセル、後にライプツィヒ)、ハイナウエル(ブロツワフ)など名だたる出版社から発行され始めた。リストの力添えによるところ大きく、自身の権威にかけて愛弟子の作品の価値を出版商たちに紹介した。

    1880-82年ブリュッセルの『芸術と文学サークル』で何度かリサイタルを行い、1882年5月4日ブリュッセルで、ポーランド舞曲集第1集 3つのガリツィア舞曲作品2(ピアノ連弾)から、リストがオーケストラ版に編曲した2曲が演奏された。リストは後に、ポーランド舞曲集第2集 4つのマズルカ作品4(ピアノ連弾)の第2曲もオーケストレーションしている。

    1882年―83年ピアノトリオのメンバーとして室内楽演奏を始めたが、活動途中にして肺病の悪化のために、1883年8月にはフランクフルト近郊ソデンで、続いて1883年12月から翌84年春まではダヴォスで療養生活を送ることになる。2度の療養の間にワルシャワの出版社F.Gebethnerで私的なコンサートを行い、これがワルシャワでの最後のコンサートとなった。ダヴォスからの手紙には、ワーグナー楽劇風のポーランド語オペラを作曲する構想について書かれていた。

    1885年初頭、ピアノ五重奏ト短調作品34を作曲。1885年4月30日ブリュッセル音楽院で初演。

    1885年夏、ブリュッセル近郊ハルとアントワープでコンサートを行い、これが奇しくも生涯最後の公開演奏となった。ハルでのコンサートにはリストも出演している。

    1885年8月初旬、夏休みに故郷ジトミェシュに帰り、そのまま回復することなく9月13日に死去。16日故郷に埋葬された。2年後にはザレンプスキの家族により、彼の死を悼みジトミェシュ大聖堂に記念碑が建立された。

    1877年にリストを訪ねたボロディンはザレンプスキとも出会っており、手紙に書き残している。「ザレンプスキはそばにやって来て、私の交響曲についてあれこれを挨拶代わりに述べ始めた。強いポーランド語なまりのロシア語だった。彼のフィアンセでベルリン出身のピアニストが一緒で、とても美人だがかなりの媚売り女だ。二人のファッションの奇抜さたるや他に類を見ないもので、つば広帽子をかぶってはいるが長髪は広がり放題、珍奇としか言いようのない眺めだった。(中略)ザレンプスキはピアニスト・作曲家としてマジカルなまでの才能に恵まれ、輝かしい前途が彼を待ち受けている。」

    作品のジャンルはポロネーズ、マズルカなどの舞曲、バラード、子守唄、舟歌、タランテラなど、明らかにショパンから受け継ぎ表現を連動させているといえる。グランドポロネーズ作品6における英雄性や闘いの精神の表現はその顕著な例である。鍵盤を縦横無尽に駆使するヴィルトゥオーゾ性や装飾音型はリストにおうところが大きい。また次の世紀の音楽を先取りする色彩感の中に、明らかに鋭く光彩を放つ楽想が現れては心の奥深くにまでたたみかけてくる。それこそがリストが評価するところの『天才だけが持つ閃き』であろう。

    ※参考リンク:「マンジョーピアノ」の写真が掲載されています。

    On Polish Music(英語)

    執筆者: 楠原 祥子
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    解説 : ピティナ・ピアノ曲事典編集部 (114文字)

    更新日:2010年1月1日
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    ポロネーズ (4)

    大ポロネーズ  Op.6 大ポロネーズ  嬰ヘ長調

    調:嬰ヘ長調  総演奏時間:10分40秒 

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