シマノフスカ, マリア・アガタ 1789-1831 Szymanowska, Maria Agata
解説:宮崎 貴子 (1397文字)
更新日:2018年3月12日
解説:宮崎 貴子 (1397文字)
ポーランドのピアニスト、作曲家。ジョン・フィールド(1782-1837)と並び、ショパンに先駆けて「ノクターン」を作曲した人物としても知られる。
マリア(マリア・アガータ・ヴォウォフスカ)は、ワルシャワで、カトリックに改宗したユダヤ人の家庭に生まれた。周辺強国によるポーランド分割と愛国者による蜂起が繰り返された当時、彼女の父親はビール工場を営んでいた。母親は貴族家系の出身。夫妻はサロンを開催し、地元の文化人や芸術家、また演奏旅行中の音楽家たちがしばしば訪れた。幼い頃から見よう見まねで鍵盤楽器を弾き周囲を驚かせていたマリアは、8歳から本格的にピアノを習い始める。
1810年(21歳)にパリとワルシャワで初めての公開演奏会を成功させ、感動した大作曲家ルイジ・ケルビーニ(1760-1842)からはハ長調のファンタジーを献呈された。同年、大地主のシマノフスカと結婚。次々と3人の子を授かるも、ヨーロッパ各地での演奏会を成功させて評判を勝ち得、自作曲を出版し始めるなど外の世界へ人脈を広げていく彼女の活動を夫は快く思わず、10年で離婚に至る。
子供たちも引き取ったマリアは音楽で生計を立てるため、いよいよ精力的に活動を展開。特に1822年から27年は休む間もなく演奏会に明け暮れ、画期的な成功を収めた(ロシア各地、ドイツ各地、パリ、ロンドン、イタリア、アムステルダム・・・ほか。各地で様々な芸術家らと親交を深める。彼女の演奏を聴いたゲーテが大ファンとなり、詩『和解』の中で彼女を熱狂的に褒め讃え、その詩を献呈した。)
27年初頭、長い演奏旅行を終え、“史上初の最も権威あるフォルテピアノの女王”はワルシャワの国立歌劇場にて華々しい凱旋公演を果たす。この公演には17歳のショパンも出かけたようだ。その次の冬、サンクトペテルブルクへ移住。そこでは演奏・作曲活動、ピアノ教師としての仕事、子供たちの教育に時間を使った。また自宅でサロンも開催し、多くの著名人たちが訪れた。彼女の音楽帳は来訪者たちが残した署名や小品で埋め尽くされており、その中には、サリエリ、モーツァルトの息子のクサーヴァー・モーツァルト、マイアベーア、
クレメンティ、ウェーバー、ロッシーニ、フィールド、ベートーヴェン、パガニーニ、カルクブレンナー、ショパン、リスト、シューマン夫妻らもいる。
彼女の作品は100曲以上にのぼり、多くは19世紀の間にブライトコプフ&ヘルテル社から出版された。主にピアノ曲を書いており、ノクターンの他、ワルツ、ポロネーズ、マズルカなどの舞曲や、練習曲、ファンタジーなど、当時人気だったスタイルは網羅されている。他に歌曲や若干の室内楽を遺しており、ポーランドを代表する詩人アダム・ミツキェヴィチ(1798-1855)(友人であり、次女の夫でもあった)の詩にも作曲した。
移住からわずか4年目足らずの1831年夏、サンクトペテルブルクでのコレラ大流行により、人気絶頂期にあった彼女も世を去った。
参考文献
Julie Anne Sadie & Rhian Samuel, The New Grove Dictionary of Women
Composers, NY, 1995, p.449-450
シマノフスカ協会ホームページ
http://www.maria-szymanowska.eu/kto-to-jest-jp
作品(22)
ピアノ独奏曲 (13)
ポロネーズ (2)
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