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ペンデレツキ 1933-2020 Penderecki, Krzysztof

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  • 解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1508文字)

  • 更新日:2022年9月20日
  • クシシュトフ・ペンデレツキ Krzysztof Penderecki

    (1933年デンビーツァ[ポーランド]~2020年クラクフ[ポーランド])

    クシシュトフ・ペンデレツキは、ポーランドの前衛音楽作曲家、指揮者、教育者。1933

    年、ポーランド南部の小さな町デンビーツァに生まれた。音楽教育はピアノのレッスンに通

    うことから始まったが、ほどなく響きの点でより面白い可能性を持つと感じたヴァイオリン

    が彼にとっての主な楽器となった。1951年、フランチシェク・スコウィシェフスキに作曲

    を学ぶためクラクフに移り、終生同市に定住した。1955年からはクラクフの国立音楽高等

    学校(2021年、クシシュトフ・ペンデレツキ音楽大学に改称)でアルトゥル・マラフスキ

    とスタニスワフ・ヴィエホヴィチに師事し研鑽を積んだ。

    作曲家としての最初の大きな成功は、ポーランド作曲家協会の第2回若手作曲家コンクー

    ルにおける上位3位独占という出来事だった。コンクールに匿名で応募された作品のうち、

    第1位を受賞した(ソプラノ・朗読・10の楽器のための)《ストロフィ》、第2位の(2

    つの弦楽オーケストラのための)《放射》、第3位の(混声合唱、弦楽器と打楽器のための

    )《ダヴィデの詩篇》は、いずれも当時無名だったクシシュトフ・ペンデレツキが作曲した

    ものだったのである。この成果により彼は「ワルシャワの秋」音楽祭への招待をはじめ、西

    欧諸国で作品を発表することができるようになった。また、1960年に作曲された《8分37秒

    》は、パリの国際作曲家会議から表彰を受けている。この作品は《広島の犠牲者に捧げる哀

    歌》と改題され、《アナクラシス》、《フォノグラミ》をはじめとする他の作品とともに、

    ペンデレツキの名が前衛音楽界を牽引する代表的作曲家として喧伝される契機となった。

    ペンデレツキは、前衛的と評される作品ばかりでなく、より「伝統的」な形式にのっとっ

    た作品も書いている。一例として宗教的作品の《聖ルカ伝による主イエス・キリストの受難

    と死》や《ポーランド・レクイエム》などが挙げられる。交響曲の中にも、前衛的かつソノ

    リティックな響きから距離を置き「新ロマン主義」を指向したものがある(交響曲第

    2,3,4番)。ペンデレツキが生涯に手がけた作品は、独奏曲、室内楽曲、管弦楽曲、交

    響曲(全6曲)、合唱曲、オペラ(5作)と多岐にわたる。

    映画音楽に関しては、ペンデレツキが音楽を提供した長編映画はヴォイチェフ・イェジ

    ー・ハス監督『サラゴサの写本』一作のみであるが、著名なスタンリー・キューブリック監

    督の『シャイニング』やフリードキン監督の『エクソシスト』などで部分的に彼の作品を聴

    くことができる。

    クシシュトフ・ペンデレツキは、主に作曲家としてその名を知られているが、優れた指揮

    者でもあった。自作曲も他の作曲家の作品も隔てなく演奏し、世界中の一流のオーケストラ

    を数え切れないほど指揮した。また、クラクフ音楽大学の学長を務めるなどポーランド国内

    各地の大学をはじめ、ドイツ(エッセンのフォルクヴァング芸術大学)やアメリカ(ニュー

    ヘイブンのイェール大学)でも教鞭を執っている。

    ペンデレツキは、ほとんど死の間際まで創作活動を続けた。遺作となった《独立したポー

    ランドのためのファンファーレ》は、PWM(ポーランド音楽出版社)からの委嘱で、ポー

    ランドの独立回復100周年を記念して書かれた作品である。

    クシシュトフ・ペンデレツキは2020年、クラクフでこの世を去った。COVID-19の世界的

    流行のため彼の葬儀はようやく2022年に執り行われ、遺灰を納めた骨壷はクラクフの国立

    パンテオンに安置された。

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    解説 : 齊藤 紀子 (128文字)

    更新日:2008年9月1日
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    作品(1)

    ピアノ合奏曲 (1)

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