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シュタイベルト 1765-1823 Steibelt, Daniel

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  • 解説:丸山 瑶子 (3299文字)

  • 更新日:2018年3月12日
  • ダニエル・シュタイベルトDaniel Steibelt (1765年ベルリンー1823年サンクトペテルブルク) 1. 生涯  シュタイベルトの活動地はロンドン、パリ、永住の地サンクトペテルブルクを中心とするが、彼も同時代のヴィルトゥオーゾによくあるように、演奏旅行でたびたび各地を巡演していた。さらに彼の場合は、出版業など作曲・演奏以外の事業に関わったこともあり(他業との兼業は、出版社を兼ねたクレメンティ、クラーマーなど当時の音楽家がしばしば行っていた)、商業上のトラブルから移動を余儀なくされたこともあった。  シュタイベルトに音楽の手ほどきをしたのはピアノ製作者の父親だった。その後、彼は後のプロイセン王となるヴィルヘルム・フリードリヒ二世の後援を受けてヨハン・フィリップ・キルンベルガー(1721~1783)に弟子入りする。初の出版作品は短い歌曲で、1782年に出版された歌曲集の中に収められ、この後にも2つの歌曲が歌曲集所収の形で出版されている。父親から強制された軍役を逃れて音楽家の道を選んだ彼は、1788年以降大規模な演奏旅行に出立し、1790年までにはパリに落ち着いた。  パリ滞在はシュタイベルトに最初の大きな成功をもたらした。特に重要なのは初のオペラ《ロミオとジュリエット》の上演(1793年)で、これは初演後ヨーロッパ諸外国に広まるほどの成功を収め(後述)、ピアニスト・教師としてだけではなく、シュタイベルトの作曲家としての地位を確立した(当時、音楽家が作曲家として認められるためには、交響曲やオペラの作曲実績が重視された)。ただパリ滞在は短く、シュタイベルトは1796年、不安定な生活や商業上の不正が原因でロンドンに移住する。彼は新天地で、ザーロモン卿が主催していた演奏会で成功したのを皮切りに、順調な滑り出しで演奏活動やオペラ作曲を続けるが、1799年、一年に及ぶ長期のヨーロッパ旅行を機に、彼はロンドンを離れる(この間にベートーヴェンとピアノで競演し、敗北を喫したのは有名な話で、近年制作の映画などにも取り上げられている)。  演奏旅行を終えた彼は1800年から再びパリに滞在し、ハイドンの《天地創造》の翻訳上演やバレエ《ゼヒュロスの帰還Le retour de Zéphire》で成功を収めるほか(ただし《天地創造》は彼により改変されたもので、これは非難の的にもなった)、出版社エラールの事業に参画するなど精力的に活動する。しかし経済上の理由からか、1802-1805年の間は一時的にロンドンに移る。  二度目のパリ滞在時には、ピアノ作品や教則本、ナポレオンの勝利を記念する祝祭カンタータ《マーズの祝祭La Fête de Mars》、オペラ作品などが生まれた。しかし彼はまたしても経済的な危機、つまり債務による投獄を免れるために1808年にパリを発ち、各地を巡ったのちにサンクトペテルブルクに定住する。当地で彼は、ジョン・フィールドとの親交や数々の作曲・教育活動に勤しむ充実した日々を過ごした。中でも一番の収穫は1810年または11年のフランス座音楽監督及び宮廷楽長職への就任である。この定職の獲得は彼に安定した生活を保証した。かくして、彼はそれまでの放浪生活に終止符を打ち、サンクトペテルブルクを終生の地とした。第8番のピアノ協奏曲を1820年に初演したのち、更にオペラ《ミダスの判決Le jugement de Midas》に取り掛かるが、完成を見ないまま闘病の末に1823年に没する。 2. 作品と評価  創作活動の中心は舞台音楽と自身の演奏楽器のピアノ作品である。  特に最初のオペラ《ロミオとジュリエット》は大反響を受け、4ヶ国語に翻訳されて初演後30年以上欧州のオペラ・レパートリーに残り続けた。この作品では革新的な楽器法やユニゾン様式の合唱の扱いが注目されており、ベルリオーズの高い賞賛を受けている。  ピアノ協奏曲は大部分が5楽章構成で、標題的なタイトル(第3番《嵐L’Orage》、第6番《サン・ベルナール山への旅Le voyage au Mont St Bernard》など)、音画、即興的なカデンツなどにロマン主義的特徴が刻印されている。第8番協奏曲は合唱付きのフィナーレ(「バッカナール風ロンド」)を持つ点に、ベートーヴェンの作品80《合唱幻想曲》との類似点が指摘されている。  最初の演奏旅行中にミュンヘンで出版された初のピアノ・ソナタ作品1から作品4をはじめとして、非常な数にのぼるソロまたはオブリガート声部付きのピアノ作品の多くは「ソナタ」と題されて出版されている。その規模は大小様々だが、大部分が2楽章構成をとる。伴奏楽器の種類もヴァリエーションに富んでおり、中には妻の演奏楽器のタンバリン用の作品も含まれる。単一楽章のピアノ・ソナタの種類は前奏曲、行進曲、ワルツ、変奏曲、標題的な作品など多数にわたる。なお1812年にナポレオンがモスクワ入りした際には、ピアノ幻想曲《モスクワ攻撃L’incendie de Moscou》を作曲しており、先のカンタータと合わせて考えると、政治情勢がしばしばシュタイベルトの作曲の契機になっていたことがわかる。  シュタイベルトは教師業でも生計を立てており、エチュードや教則本も残している。妻の楽器、タンブリン奏法についても書いているのは興味深い。中でも1805年にパリで出版された『ピアノ奏法Méthode pour le pianoforte』は、初めてペダルの扱い方が詳しく論じた重要な文献である。ここでシュタイベルトは「最も新しい」4つのペダルが付いたフランスのピアノについて記述しているが、これは今日一般的なピアノに装備されているダンパー、ピアニッシモ(ウナ・コルダ)ペダルの他に、リュート・ストップとチェレスタ・ストップ(バフ・ストップ、ハンマーと弦の間に皮革のパーツが挿入される機構)が付いたS. エラールのピアノである(この時代にはまだペダルの呼称に混乱があり、シュタイベルトはチェレスタ・ストップ[jeu céleste]という用語でウナ・コルダを指し、いわゆるチェレスタ・ストップの方は「バフ・ストップ[jeu de buffle]」という用語で説明している。) なおシュタイベルトは本書において、クラーマーやドゥシークらが使っているペダル記号は本著で初めて発案されたものであると主張している。実際、シュタイベルトは実作品において音楽史上、初めてペダル記号を指示した人物である(1793年に出版した《ポプリ第6番》と《エールのメランジュ》作品10)。 教育的な作品としては、これと並んで《6つの大前奏曲》作品8(1793年刊)、《様々なジャンルを含む50の訓練課題を含む練習曲集》作品78(1809年頃刊)などがあり、後者は収録曲の一部がメンデルスゾーンの様式の先駆と位置付けられている。 3. 音楽史における評価  音楽史におけるシュタイベルトに対する評価は一様ではない。彼の演奏が技巧的な面で優れていたということは、同時代人の証言や出版された作品の書法から間違いないが、その様式の練磨という点に関しては賛否両論がある。すなわち一方で、シュタイベルトの音楽には、前述したベルリオーズの賞賛のほか、後世の文献でも旋律など音楽素材の創造力の豊かさが認められている。しかし他方で、同時代人と後世人両方から、芸術的完成度に欠けるという批判の声が上がっている。これは、ピアノ作品においては即興を書き留めたような様式が支配的である故に、シュタイベルトが確固たる作曲様式を持たない作曲家と見なされたことに起因している。一方、ピアノ演奏史の文脈においては、ペダル技法の先駆者として昨今再評価が高まっている。  なおその人間性については、横柄、無作法、不親切など否定的イメージを報告する史料が多い。これは彼がたびたび引き起こした商業上、経済上のトラブルからすると信憑性が高い事実であると思われる。

    執筆者: 丸山 瑶子
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