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フランク, エデュアール 1817-1893 Franck, Eduard

  • 解説:上田 泰史  (1719文字)

  • 更新日:2018年3月12日
  • エドゥアルト・フランク, (1817.10.5 ブロツワフ~1893.12.1)  ドイツのピアノ奏者、作曲家、教師。現ポーランド領(当時ドイツ領)のブロツワフに、銀行家の息子として生まれる。1834年、兄ヘルマンの勧めでデュッセルドルフに移り、メンデルスゾーンに師事(当時メンデルスゾーンはこの街で3年任期の楽長を務めていた)。ひとたび生地に戻って一般教育を修了、35年、師がライプツィヒ市の楽長およびゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任すると、同地で38年まで再びメンデルスゾーンに師事した。当時、デュッセルドルフと並んでザクセン王国における音楽の中心地だったライプツィヒで、フランクはイギリスのピアノ奏者、作曲家W. S. ベネットR. シューマン、ヴァイオリニストのフェルデイナント・ダーフィト(ダヴィッド)らと知己を得た。後に彼は《ピアノ協奏曲》作品13をシューマン夫人に献呈している。  42年から45年にかけて、パリ、ロンドン、ローマに旅行。しかし、フランクがこれらの都市で自作品を売り込むことはなかったと見られる(確認されている限り、フランクの作品はドイツの出版者のみから刊行されている)。帰国後、45年から51年にかけてベルリンで活動し、次いでヒラーが院長を務めるケルン音楽院で1851年から59年まで教鞭を取り、ピアノ、スコア・リーディング、音楽理論を教えた(ヒラーはフランクの後任にブラームスを据えようとしたが断られている)。52年には、同市の市民合唱協会の会長にも任じられ、同市の音楽院および音楽活動の発展に大きく寄与しました。彼の《ピアノ三重奏曲》作品22はフェルディナント・ヒラーに捧げられている。59年に彼はベルンに移り、名誉教授および博士として67年まで同地の音楽院で教えた。同年、ベルリンに移住したフランクは、教育者ユリウス・シュテルン(1820~1883)がテオドール・クラックらと創設したシュテルン音楽院に招かれ、78年まで同校の教授として教壇に立った。78年から晩年の92年まで、フランクは、かつてシュテルン音楽院で教えていたエミール・ブレスラウアー(1836~1899)が創設した音楽学校で教えた。  フランクは、自己批判の強い性格から、自作品をあまり出版しなかった。76年という比較的長い生涯にも拘わらず、彼は作品番号にして62番までしかない(しかも、作品30番台は出版されなかった)。  フランクが出版した作品は、歌曲集(作品4, 8)を除けば、器楽曲に限られている。管弦楽作品には、演奏会用序曲(作品12)、ピアノ協奏曲(作品13)、幻想曲(作品13)、交響曲(作品47)、室内楽にはチェロ・ソナタ(作品6)、ヴァイオリン・ソナタ(作品42、60)、ピアノ三重奏曲(作品11、58)、弦楽四重奏曲(作品49、55)、弦楽五重奏曲(作品15、51)、ピアノ五重奏曲(作品45)、弦楽六重奏曲(作品41、50)がある。ピアノ独奏作品では、9曲のソナタ(作品40、44)、練習曲集(作品1)、前奏曲集(作品18)、幻想曲(作品61) 種々の性格小品集が確認されている。  フランクの様式は、古典的フレーズ構造、和声体系を重んじており、冒頭に述べたように、師メンデルスゾーンの厳格な系譜に属している。初期には師メンデルスゾーン風の語法も見られるものの、後年の室内楽にはいっそう自由でゆったりとしたおおらかさ、ヒラーを思わせる思いがけない展開を聴くことができる。「ピアノ・ブロッサム」で紹介された《40の小品》作品43-7には、恐らくメンデルスゾーンを介して学んだバッハの教会カンタータ風の様式が顕著である。近年では再評価も進み、録音や校訂楽譜が制作・販売されるようになっている。息子のリヒャルト(1858~1938)もピアノ奏者および作曲家となった。 <参考文献・サイト> New Grove Online フェッファーコルン音楽出版社ホームページ http://www.pfefferkorn-verlag.com/en/our-publishing-house/eduard-franck/

    執筆者: 上田 泰史 
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    作品(3)

    ピアノ独奏曲 (3)

    ソナタ (1)

    ソナタ 第2番 Op.40-2 ソナタ 第2番 ハ長調

    調:ハ長調  総演奏時間:16分00秒 

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    曲集・小品集 (1)

    変奏曲 (1)

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