解説:舟山 太郎 (1829文字)
更新日:2026年5月18日
解説:舟山 太郎 (1829文字)
ロシア出身のアルメニアおよびソ連のピアニスト、教育者、作曲家。出生時の姓はサラジェフだがアルメニア風にサラジャンと表記されることもある。1919年、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国のモスクワに生まれ、母親からピアノの手ほどきを受けた。その後一家はレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)へ転居し、1934年から大学院修了まで10年にわたりサマーリー・サフシンスキーにピアノを師事した。サフシンスキーはレニングラード音楽院(現在のリムスキー=コルサコフ記念国立サンクト・ペテルブルク音楽院)で長年教授を務め、同音楽院に附属10年制音楽学校を創設した人物である。1936年に同音楽学校が創設され、サラジェフは1期生として入学。翌年レニングラード音楽院へ進学し、ピアノを専攻するかたわら作曲をアルセーニー・グラトコフスキーに、オルガンをイサイ・ブラウドに師事した。また、寛容なサフシンスキーからの提案でほかのピアノ科教員のレッスンをしばしば受講・聴講した。とりわけ3年間レッスンに通ったウラジーミル・ソフロニツキーから多大な影響を受けた。
大祖国戦争の勃発にともない、レニングラード音楽院は1941年からウズベク・ソヴィエト社会主義共和国のタシケントへ疎開し、サラジェフは1942年に疎開先で卒業を迎えた。卒業後は同大学院へ進み、研究と並行してサフシンスキーの助手としての教育活動、ウズベク音楽協会での演奏活動も行った。1944年に同大学院を修了。同年アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国のエレバン音楽院(現在のコミタス記念国立エレバン音楽院)から招聘を受け、アルメニアへ移住した。エレバン音楽院ではすでに教鞭を執っていたレニングラード音楽院出身のロベルト・アンドリアシャンとともにレニングラード派のピアニズムを伝えた。晩年まで同音楽院で後進の指導にあたり、ピアノ科長、教授を歴任した。教え子にアルチュン(アルトゥール)・パパジャン、セルゲイ・ババヤン、エドゥアルド・バグダサリャン、マルティン・ヴァルダザリャン、ゼムフィラ・バルセギャンらがいる。
サラジェフは初期教育にも造詣が深く、ヴァチェ・ウムル=シャトと共同で教本『ピアノ演奏の学校』(第1巻1973、第2巻1978)を編纂した。導入期から4年生までを対象としたこの教本は、初心者が基礎事項を体系的に習得できるよう配慮がなされ、アルメニアの曲のみで構成されていることが大きな特徴である。なお、『リトルコスモス』(全音)および『ピアノ』(ウクライナ音楽社、キファラ社)にサラジャンの曲として収録されている〈かなしいうた〉はこの『ピアノ演奏の学校』にも収録されているが、作曲者名はウムル=シャトと記されている。
アルメニアへ移住した当初はアルメニア音楽協会の公演(1948年まで)、フラチヤ・アバジャン(Vn.)、アレクサンドル・チャウシャン(Vc.)と結成したピアノトリオの演奏活動(1960年代末まで)など演奏と教育を両立したが、後年は教育活動が中心となった。創作分野では編曲を得意とし、アルメニア民謡やアルメニアの吟遊詩人の歌をピアノ曲へ編曲した。《アルメニア民謡のテーマによる12の小品》(1957)、『ピアノ演奏の学校』(1973、1978)に収録された小品などの作曲に分類される作品においてもアルメニアの民謡や舞曲を基にしたものが多い。このほかアンドリアシャンと共同でアルメン・ティグラニャン作曲のオペラ《アヌシュ》、クリストフォル・クシュナリョフ作曲のオルガン作品などを編曲した。1953年アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国功労芸術家、1974年同共和国功労芸術活動家。1986年、エレバンにて没。
サラジェフは音楽家の家系で、妻アンナは歌手だった。長男セルゲイと孫ゲオルギーはピアニストで、両者は現在コミタス記念国立エレバン音楽院で教鞭を執っている。チェリストの次男ヴァグラムはアメリカへ移住し、世界の主要音楽ホールで活躍した。孫アンナはカナダ在住のピアニスト。サラジェフ以外の人物の姓はサラジャンである。同じ姓のコンスタンチン・サラジャン(サラジェフ)とは血縁関係はない。
参考文献:
Шахсуварян, С.С. 2019. К ЮБИЛЕЮ УЧИТЕЛ К ЮБИЛЕЮ УЧИТЕЛЯ. Музыкальная Армения. 1, 56 (ноя. 2019), 68–75.

ステップレベル:導入3,基礎1,基礎2