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シェリゴフスキ 1896-1963 Szeligowski, Tadeusez

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  • 解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1385文字)

  • 更新日:2022年9月20日
  • タデウシュ・シェリゴフスキ  Tadeusz Szeligowski

    1896年リヴィウ[ウクライナ]~1963年ポズナン[ポーランド])

    タデウシュ・シェリゴフスキは、ポーランドの作曲家、教育者、法律家。音楽生活の活性化を先導した人物でもある。ルヴフ(現ウクライナのリヴィウ)のポーランド音楽協会付属音楽学校でヴィレーム・クルスにピアノを、スタニスワフ・ニェヴィアドムスキに音楽理論を学び、1914年に卒業した。ポーランドに移った後、クラクフのヤギェロン大学で法律を学び始め、1922年に法学博士号を得て修了。同大学では並行して音楽学も学んでいる。

    1923年、シェリゴフスキはヴィルノ(現リトアニアのヴィリニュス)に移り、25年から27年にかけて同地の音楽院で教鞭を執り、音楽史の講義を担当した。また、ヴィルノ・フィルハーモニー協会副会長も務めた。1929年から31年にかけて、パリでナディア・ブーランジェに作曲を、ポール・デュカスに楽器法を師事してさらなる研鑽を積んだ。1931年に帰国すると、ポズナン音楽院で音楽理論と作曲を教え、スタニスワフ・モニューシュコ記念合唱団の指導に携わった。同じ年、音楽学者のスタニスワヴァ・ハラソフスカと結婚、教育や音楽の普及の分野で二人は共同で数多くの提言を行い実践している。

    1932年からはヴィルノの音楽院で作曲のクラスを受け持った。声楽アンサンブル「プロ・アルテ」を結成し、またヴィルノ芸術家団体評議会の設立を主導してもいる。1935年から39年にかけては、私立カルウォーヴィチ音楽院の副院長を務め、ヴィルノ大学でも教鞭を執った。第二次世界大戦中も同地で過ごし、聖カジミエル教会のオルガニストを務めた。

    戦後はルブリンに移り、国立音楽中等学校および子ども向け音楽教室の校長となった。1947年、ポズナンに居を移し、国立オペラ高等学校の開校を主導する。また、ポズナン・フィルハーモニーの監督にも就任した。その後、ワルシャワとポズナンの国立音楽高等学校で作曲科を率い、1950年には教授の地位を得る。1961年には音楽祭「ポズナン音楽の春」を創始した。

    タデウシュ・シェリゴフスキは、組織運営や社会事業に積極的に取り組んだ。1951年から54年にかけて、ポーランド作曲家協会中央理事会会長を務めたほか、1953年以降、ポーランド音楽出版社(PWM)の事業評議会、中央芸術教育局中央評議会、文化・芸術省文化評議会などで活動した。また彼は音楽ジャーナリストとしても、『クリエル・ヴィレンスキ』、『ティゴドニク・ヴィレンスキ』誌、『ムズィカ』、『クリエル・ポズナンスキ』といった定期刊行物に記事を寄せている。

    シェリゴフスキは1963年にポズナンで没し、ゴルチンスキ墓地に埋葬された。1965年、彼の棺はポズナンの聖ヴォイチェフ教会地下にある「ヴィエルコポルスカ地方功労者墓所」に移されている。

    作曲に関してシェリゴフスキは、カロル・シマノフスキやストラヴィンスキーの初期作品からインスピレーションを受けたものから、懐古主義的傾向・古い教会音楽への関心(ポリトーナルの実験的使用)、最新の作曲技法の使用など、その作風を時代や段階に応じて変化させている。ポーランドやリトアニアのフォークロアとの密接な関連性が見られる点も彼の多くの作品に特徴的である。

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    作品(4)

    ピアノ独奏曲 (1)

    種々の作品 (1)

    ピアノ合奏曲 (1)

    種々の作品 (3)

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    サーカス サーカス

    総演奏時間:1分00秒  ステップレベル:応用2

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