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カルウォーヴィチ Karłowicz, Mieczysław

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  • 解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1539文字)

  • 更新日:2022年9月30日
  • ミェチスワフ・カルウォーヴィチ Mieczysław Karłowicz

    (1876年ヴィシュニェーヴォ[ベラルーシ]~1909年タトリ[ポーランド])

    ミェチスワフ・カルウォーヴィチは、後期ロマン派を代表するポーランドの作曲家、指揮者。登山と写真に情熱を注いだ。父ヤン・アレクサンデル・カルウォーヴィチがチェロとピアノをよく嗜んだことから、幼少の頃から音楽に親しんだ。1882年、カルウォーヴィチ一家はヴィシュニェーヴォの広大な所領を売却し、ハイデルベルク、プラハ、ドレスデンを転々とする。1887年にワルシャワに定住すると、普通学校に通いながらヤン・ヤンコフスキにヴァイオリンの個人指導を受けた。1889年から6年間、ヴァイオリンをスタニスワフ・バルツェーヴィチに師事し、同時にズィグムント・ノスコフスキおよびピョートル・マシンスキに和声を学んだ。また対位法と楽曲形式の教師グスタフ・ログスキの弟子にもなっている。現存する彼の最初のピアノ曲《五月の歌》はこの時期に書かれた作品である。カルウォーヴィチは音楽の研鑽を積む一方で、ワルシャワ帝国大学で自然科学も学んだ。

    1895年、カルウォーヴィチはベルリンでフロリアン・ザイツにヴァイオリンを、ハインリッヒ・ウルバンに作曲を学び始めると同時に、大学で哲学史、物理学、心理学の講義にも出席している。同時期、彼はヨーロッパを多く旅行し、登山にも熱を入れた。また歌曲が多く生み出されたのもこの頃で、カジミエシュ・プシェルヴァ=テトマイェルの詩による10曲からなる歌曲や、ユゼファト・ノヴィンスキの劇詩『白い鳩』のために書かれた付随音楽《ビアンカ・ダ・モレナ》が挙げられる。

    1901年にワルシャワに戻ると、かねてより着手していた《交響曲「再生」》を完成させた。1903年からはワルシャワ音楽協会の理事に名を連ね、オーケストラの創設や運営を務めるなど活躍した。

    カルウォーヴィチの作品には、チャイコフスキーやヴァーグナー、リヒャルト・シュトラウスの影響が見て取れる。同時代においては前衛的すぎるとの批判も多かったが、彼の作曲技法は、優れた管弦楽法、独創的な楽器法・和声法の点で高く評価されている。

    1906年、指揮法のクラスに通うためライプツィヒに滞在した後、カルウォーヴィチはザコパネに移住、タトリ山岳協会の一員として、写真、登山、スキー、山岳関連の記事の執筆などにも携わった。

    1909年2月8日、雪崩に遭い、非業の死を遂げた。

    <主要作品>

    ピアノ伴奏付歌曲《ああ、信じるな!》(1892年)

    ピアノ伴奏付歌曲《新しい春とともに》(1895年)

    ピアノ伴奏付歌曲《時おりつらつら》(1895年)

    ピアノ伴奏付歌曲《6つの歌曲》作品1(1895~96年)

    ピアノ伴奏付歌曲《錆びた木の葉を》(1896年)

    ピアノ伴奏付歌曲《10の歌曲》作品3(1896年)

    弦楽合奏曲《セレナード》作品2(1897年)

    ピアノ伴奏付歌曲《一番美しい歌の数々》作品4(1898年)

    ピアノ伴奏付歌曲《ヤヴォルの木陰で》(1898年)

    ユゼファト・ノヴィンスキの戯曲《白い鳩》のための付随音楽《ビアンカ・ダ・モレナ》作品6(1900年)

    《交響曲「再生」》作品7(1902年)

    朗読とピアノのための朗誦劇《主の天使に》(1902年)

    《ヴァイオリン協奏曲 イ長調》作品8(1902年)

    交響詩《寄せ返す波》作品9(1904年)

    交響詩《永遠の歌》作品10(1906年)

    交響詩《リトアニア・ラプソディ》作品11(1906年)

    交響詩《スタニスワフとアンナ。オシフィエチム兄妹》作品12(1906年)

    交響詩《悲しい物語》作品13(1906年)

    交響詩《仮面舞踏会での出来事》作品14(1908~09年)

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