カッセルン Kassern, Kazimierz Zygfryd
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (786文字)
更新日:2022年9月30日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (786文字)
カジミェシュ・ズィクフリト・カッセルン Kazimierz Zygfryd Kassern
(1904年ルヴフ[ポーランド]~1957年ニューヨーク[米国])
カジミェシュ・ズィクフリト・カッセルンはポーランドの作曲家、ピアニスト、法律家。
ルヴフ(現ウクライナのリヴィウ)に生まれ、同地のポーランド音楽協会付属音楽院で音楽
理論と作曲を学んだ。1922年から26年にかけてポズナンの音楽院で作曲とピアノを学び、
またポズナン大学で法学を修めた。
1939年に第二次世界大戦が勃発するまでは、作曲や音楽評論家としての仕事の傍ら、検
察庁顧問としても活動した。ユダヤ人家系の出身だった彼は、ナチスの秘密警察から身を隠
すため頻繁に住まいを変えている。
1945年、カジミェシュ・カッセルンはアメリカに渡り、ニューヨークのポーランド領事
館で文化アタッシェを務め、後に領事および国連の文化使節に就任した。しかし1948年、
当時ポーランドで政権を担っていた共産党との協力を嫌い、カッセルンはこの職を辞した。
これに対するポーランド当局の処分は、彼への委嘱作品の発注取り消し、国営出版社からの
作品出版の停止というもので、演奏会ポスターから彼の作品は完全に消え去った。
カッセルンはその後の人生をアメリカで送り、作曲のほか、サード・ストリート音楽学校
、ジャック=ダルクローズ研究所、ニュースクール大学などで教育に携わった。1957年に
没する。
カジミェシュ・カッセルンの作曲様式は非常に多様だった。初期の作品は、カロル・シマ
ノフスキやフランスの印象派にインスピレーションを得たものだったが、カッセルン自身は
自らを新ロマン主義の作曲家であると考えていた。作品は形式的には厳格である一方で、叙
情的で非常にメロディックでもある。創作活動の後期においては、オペラ作品や教育的な性
格の強いピアノ曲の作曲が中心となった。