ノヴォヴィエイスキ Nowowiejski, Feliks
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (877文字)
更新日:2022年9月20日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (877文字)
フェリクス・ノヴォヴィエイスキ Feliks Nowowiejski
(1877年ヴァルテムボルク[ポーランド]~1946年ポズナン[ポーランド])
フェリクス・ノヴォヴィエイスキはポーランドの作曲家、指揮者、教育者。10歳の頃、
シフィエンタ・リプカの音楽学校に通い始め、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ホルン、オ
ルガンの演奏を学んだ。
1898年から1902年にかけて、ベルリンのシュテルン音楽院で学んだほか、レーゲンスブ
ルクでの音楽講習会を受講、さらにベルリン王立芸術アカデミーのマックス・ブルッフのク
ラスで作曲を、またフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で音楽学と音楽美学も学び始めている
。
ノヴォヴィエイスキが作曲した作品のうち、オラトリオ《放蕩息子の帰還》と《ロマンテ
ィックな序曲》が高い評価を受け、1902年、彼はジャコモ・マイヤベーア賞を受賞した。
その賞金を資金として2年間におよぶ中欧と西欧を巡る芸術の旅に出る。1904年、ベルリン
に戻り、課程を修了した。
フェリクス・ノヴォヴィエイスキは1909年にポーランドに帰国、クラクフに拠点を置き
、同市の音楽協会芸術監督を務めるようになった。また指揮者、オルガニストとしても活躍
する。第一次世界大戦の勃発後はドイツに渡り、ベルリンのオーケストラと共演した。戦後
はポズナンに居を定め、オーケストラによる演奏会の企画やオルガン・リサイタルの開催な
ど、同市の音楽活動推進に精力的に取り組んだ。1920年からポズナンの国立音楽院で教鞭
を執ったが、1927年には教育活動から退き、作曲と演奏活動に専念するようになった。以
降、彼の創作活動に対し多くの賞が与えられた。第二次世界大戦が勃発すると、逮捕される
ことを恐れ、クラクフに身を移した。ノヴォヴィエイスキは1945年、終戦後間もなくポズ
ナンで没した。
フェリクス・ノヴォヴィエイスキの作品は、オルガンやピアノ(声楽を伴う作品が大部分
)のための作品や合唱曲が中心となっている。様々な楽器編成の作品も数知れず残したが、
二度の世界大戦により、手稿譜の一部は損壊、遺失してしまった。