ルフェビュル=ヴェリー 1817-1869 Lefébure-Wély, Louis James Alfred
解説:上田 泰史 (1294文字)
更新日:2018年3月12日
解説:上田 泰史 (1294文字)
19世紀のフランスを代表するオルガニスト、ピアニスト兼作曲家。オルガニストの父から音楽の手ほどきを受け、既に5歳で作曲を始める。10代に満たないうちから折に触れて父の代役を務め、聖務でオルガン演奏担当した。1832年、14歳と11ヶ月でパリ音楽院のオルガン科(担当教授はフランソワ・ブノワ)に入学、35年に一等賞をとって卒業。オルガンと並行して34年にヅィメルマン教授のピアノ科に入り、翌年には早くも一等賞を得る。31年に父が亡くなると、ルフェビュル=ヴェリーは父の勤めていたサン=ロック教会の専属オルガニストに就任。同教会の教区に属していた王妃マリー・アメリーの後ろ盾を得て、篤い信仰心と共にオルガンの道に邁進した。作曲の勉強も怠らず、パリ音楽院教授のベルトン、アレヴィに助言を仰ぎ、また個別に気鋭のオペラ作曲家アドルフ・アダンの指導も受けた。 オルガニストとしての評価は非常に高く、カヴァイエ=コルに代表される19世紀の名オルガン製造者もルフェビュル=ヴェリーへの賞賛を惜しまなかった。音楽院の同窓生で後にピアノ科教授となるマルモンテルは、彼の演奏について次のように述べている。「ルフェビュル=ヴェリーがオルガンで即興をすると、彼の右に出る者はいなかった。[…]エネルギッシュで情熱的な意志にいつも従順な彼の豊かで溢れんばかりの想像力は、感情のあらゆるニュアンスに従っている。まったくの誇張を抜きにしてルフェビュル=ヴェリーは教会、あるいはサロンにおいて最高のオルガンの天才だった。」 1847年からはマドレーヌ寺院のオルガニストに指名され、49年のショパンの葬儀では彼がオルガンでショパンの前奏曲を演奏して会衆に深い感銘を与えた。 ピアニストとしての名声も、オルガニストとしてのそれに劣らなかった。現代ではオルガニストがピアニストを兼ねるということは珍しいが、サン=サーンスがそうであったように、19世紀にはオルガン(ないしハルモニウム)とピアノの距離はもっと近いものだった。彼が出版した200余りの作品の大部分はピアノ曲で、中でも《修道院の鐘》作品54-1は大ヒット作となり、フランス、イギリス、ドイツで一万部以上が売れた。しかし、このヒットによってルフェビュル=ヴェリーの本領は知られないまま、この作品だけで19世紀のサロン小品作家というレッテルを貼られてしまったきらいがあることも事実である。晩年の彼は《ヴァイオリン・ソナタ》作品157、2台ピアノの為の交響曲(作品163, 168)のような大規模作品も書いており、作曲家としての能力はかなり高度な水準に達していることが窺がわれる。批評家ドルティーグが「ヴィルトゥオーゾというよりはオルガニストである」と述べたように、彼の作品には概して流麗で華々しいコンサート用作品というよりは、幾分角ばった音型を用いて声部を明確に書き分けつつ明快なフォルムを構築している点が目立っている。これは、オルガンの書法が影響しているもの見られる。 彼は生涯の大作、オルガン曲集《現代のオルガン》(1868)を出版した翌年、パリで亡くなった。
作品(17)
ピアノ独奏曲 (2)
種々の作品 (15)
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