【作曲】1838-39年
【出版】1840年にパリ(E. Troupenas)、ライプツィヒ(Breitkopf & Hartel)、ロンドン(Chr. Wessel)で出版
ショパンは1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れている。この2曲のポロネーズは、その時に書き上げられた作品である。ショパンにとって、この旅行は順調なものではなかった。過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。この時期に生まれた作品には、《前奏曲集》Op.28などの名曲がある。
パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。
1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。
◆Op.40-1 A-dur
「軍隊」という愛称で知られるこの作品は、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。Op.40-1は、曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。
曲の構造はA(1-24小節)-B(25-80小節)-A(81-104小節)の三部形式。
◆Op.40-2 c-moll
Op.40-1とは対照的に、陰鬱で重々しい性格の作品である。ポロネーズ特有のリズムは、かすかに起源の舞曲を思い起こさせるように、断片化されて用いられている。アルトゥール・ルービンシュタインは、この作品を、ポーランドの没落を描いたものだと解釈したという。極めて豊かな和声の変化、そして複数の旋律の対位法的な使用によって、壮麗な効果が作り出されている。
曲の構造はA(1-71小節)-B(72-116小節)-A’(117-133小節)の三部形式。最後のA’部分では、短縮されたA部分が劇的な雰囲気で繰り返される。